The Streak

To read in English (Published Sep 2, 2015), please click here.

 連続試合出場の記録を達成した夜のことは、まるで目の前のスクリーンに映し出された映画のように振り返ることができる。私はもう何年も、その試合の録画を見たくなかった。自分の目で捉えた光景だけを記憶しておきたくて、違う見方をしたくなかったのだ。

 試合が成立したのは5回裏の攻撃のときだった。そのとき、誰もが立ち上がり、歓声を上げた。私は自分にできる限り、それに応えたつもりだが、あまりにも長く続くものだから少しばつが悪くなってきた。我々は試合の真っ最中だったし、試合中断が相手投手やプレー中の他の選手たちにとってフェアなことではないと思ったのだ。カーテンコールを終えてダッグアウトに戻ると、チームメイトのラファエル・パルメイロが「OK。キミが球場を一周でもしない限り、試合は再開されないぞ」と言った。

 私は笑い飛ばしたが、もう一度ダッグアウトから顔を出すと、彼とボビー・ボニーヤが一塁側のファールラインのところまで私を押し出した。そこで「わかったよ。それで試合が再開できるかどうか試してみよう」と考えたのだが、ライン上まで出てみると、そのお祝いがさらに個人的な祝福のように感じられた。その夜、目の前にいる私にとって大切な人たち、一人ひとりの顔や名前をちゃんと認識していたからだ。彼らはその夜、私が記録達成する瞬間を見届けるために、球場に駆けつけてくれていた。そして、レフト側の観客席に辿り着いた頃には、試合が再開できるかどうかはもはや問題ではなくなっていた。

 父が外野のスカイボックスという座席にいたのを覚えている。何度も彼を見てアピールしたよ。子どものころも含め、これまで見せたことのない感情表現をしていると感じた。互いに見つめ合うだけで、数えきれないほどの感情を共有することができたんだ。

 私はいつも、ワールドシリーズで最後のアウトを捕球したことを選手としての最高の瞬間だと言っているが、2131という連続試合出場記録を達成したあの夜は、一人の人間として最も記憶に残る最高の瞬間だったのは間違いない。 

 私にとって、父があの場にいてくれたことは大きな意味があることだった。なぜなら、野球を始めたときも、オリオールズに入団したときも、彼が一緒にいたからだ。

 私の父はそのすべてのキャリアをオリオールズで過ごした。マイナー時代に怪我したためにメジャーリーグの選手としての夢を叶えることはできなかったが、その豊富な知識で素晴らしいコーチになった。キャンプ中、父がいつも選手全員にするお決まりのスピーチを覚えている。彼は「野球界で最高のチームにようこそ。ここのキャンプを生き延びることができればメジャーリーグでプレーすることになる。我々のチームじゃないかも知れないが、メジャーリーグでプレーすることができるんだ」と話すんだ。

 私はそんな教えとともに成長した。オリオールズは、とてもリスペクトされている組織であり、チーム運営も上手くいっていた。父はそんなチームに特別な誇りを持っていたので、家族の誰もが彼と同じように誇りを持って育った。高校卒業後のドラフトでは、私は他の球団からも大きく注目されていた。数多くのスカウトが全体一位指名だとも言ってくれた。そして、オリオールズが2巡目で指名してくれた。もちろん他の球団でプレーする心の準備は出来ていたが、オリオールズに指名して欲しいというのが本心だった。実際に指名を受けた瞬間、私は過去に経験したことがないほど幸せな気持ちだった。

 メジャーに初昇格したのは、ストライキが終わった1981年のことだ。ロイヤルズ戦で、アール・ウィーバー監督がシンギー(ケン・シングルトン外野手)の二塁代走だと叫んだ。フィールドに飛び出した時、異常なほどにアドレナリンが出てくるのがわかったよ。オリオールズのユニフォームを着て、当時のオリオールズの球場、メモリアル・スタジアムに立っているなんて夢のようだったね。私がリードをとると、ロイヤルズのフランク・ホワイト投手がけん制球を投げ、二塁に戻ってセーフになった。それがメジャーで最初のプレーになった。フランクは返球を受け取るとこう言った。「ちょっと試しただけだ、小僧」とね。

 私のキャリアは大成功で始まった。1年目、チームの状態もとても良かった。公式戦の最終戦でミルウォーキー・ブルワーズに敗れて、残念ながらプレーオフ進出を逃したが、その経験を活かし翌年はワールドシリーズ優勝を成し遂げたのだ。1984年は35勝5敗でスタートダッシュしたタイガースの方が上だったが、我々の状態は良いままだった。85〜86年になると、我々は依然として競争力はあったのだが、そのころから有能な選手たちをフリーエージェントなどで失い始めた。さらにシーズンが進むと、チームはついに再建モードに入った。86年が終わるとアール・ウィーバー監督が野球界から去ることになり、私の父がオリオールズの新監督に就任することになった。

 父の1年目となった87年は苦戦続きで、翌88年も開幕6連敗からスタートした。まだまだシーズンは序盤だったし、必要なところで何本かヒットが出ていれば楽に3勝3敗にはなっていたはずだから、私はまだまだこれからだと思っていた。ただ、如何せんタレントが不足していた。

 球場に向かう途中で聞こえてきた、ラジオのことは決して忘れられない。父がクビになったという内容だった。球場に着くと、当時同じチームにいた弟のビリーとともにコーチのフランク・ロビンソンに呼ばれ、彼が監督になったことを知らされた。私たちは父が裏切られたと感じて、私たちは怒りを禁じえなかった。私たち家族はこのチームのためにすべてを捧げてきたけど、チームは父に成功のチャンスすら与えてくれなかった、そんな風に感じたのだ。

 私は父の解雇がチームをさらに混乱に陥れたと確信している。我々はさらに15連敗を喫し、望ましくない理由で大きな注目を集めることになってしまった。後から振り返ってみれば、チームの現状に向き合うという意味で良いことだったのかもしれない。それでも私にとっては、自身のキャリアの中で最も苦しい時期だった。私にはいつもトレードの噂があったし、そんな噂話が次から次へと出てくる日々だった。私自身もオリオールズでの最後の年になると思っていたし、実際のところ、私は初めて他の場所でプレーしたいと思った。

 ところが、シーズンが進んで調子が上向いてくるようになると、ネガティブな感情が消えていった。違った考え方ができるようになったのだ。すでに決定事項となった球団の経営方針はもう過去のことだと捉えられるようになると、オリオールズこそが私にとってのホームであり、唯一プレーしたいチームだと確信した。それからは後ろを向くことはなかった。

 1989年、私は1208試合連続出場を果たすと、スティーブ・ガービーを抜いて歴代3位になった。私のその記録が全米の注目を集めることになったのはそれが最初だった。私はなるべく、そのことについて考えないようにしていた。歴代1位のルー・ゲーリックのことを意識しないこともそのひとつだった。誤解しないでほしいのは、私自身は野球界の偉人の話を読むのは好きだったけど、ゲーリックの連続記録についての何かを学びたくなかったということだ。彼はただ楽しくプレーしていたのだと思い込むこと、それが私自身を守るすべだった。彼のモチベーションやそれ以上のことを決して学びたくなかった。自分が他の誰かのようになろうとすると、良い結果につながらないとわかっていたからだ。野球選手としての唯一の仕事は球場に行きプレーすること。そして、監督がその日、チームの勝利のために私を9人の内の1人であると判断すれば、スタメンに名を連ねることになる。私は決して「ゲーリックの記録を追っているのでスタメンに入れてくれ」などとは言わなかった。私はただ、プレーしたかっただけなんだ。

 連続試合出場を続けている間、私が唯一重圧に押し潰されそうになったのは、私かチームのどちらかがスランプに陥ったときだった。もしも私がスランプになれば、スタメンに入るのは身勝手だと批判されることになる。もちろん、自分がチームに迷惑をかけるかも知れない存在でいるのはいつも辛いことだ。ただ、本当に身勝手な選手というのは、調子が悪いときに自分のほうから逃げ出す選手だ、という哲学が私にはあった。チームが好投手と対戦し、そのときに自分が20打数無安打だったとして「だめだ、誰か代わりに打席に立ってなんとかしてくれ」と言うことこそが身勝手なのだ。

 そんな状況に陥ったことが、たった一度だけある。それはボストンでの試合で今でもよく覚えている。土曜のナイトゲームで延長15回を戦い抜き、翌日曜日のデーゲームに戻ってこなければならなかった。肉体的に疲れ切っていたのに、数時間後にはロジャー・クレメンスと対戦しなければならなかったのだ。その日のロジャーはとくに調子が良く、背丈が大きいこともあってセンター後方の客席のほうから球が投げ込まれるように感じたものだ。もし、スタジアムの照明が点灯していなかったら、ボールを目で追うことすら不可能だった。「もうこれだけプレーしてきたんだ。他の誰かがチャレンジしてくれ」って言えたらどんなに楽だろうかとね。だが、それはただの責任逃れだ。人生であれ試合であれ、私はそんな風に向き合うよう育てられたわけではなかった。

 1800試合連続出場のころには、あらゆる批判は好意的な意見に変化し、野球界のために私がその記録を破るべきだと言われるようになっていた。私は多くのことを自分の中に抱え込んでいたので、それはとてつもない重圧だった。当時を振り返るたびに、私はよく、もしかしたら、スタメンから外してほしいと自ら申し出るほうがいいのではないか、オフの日を決めて試合を休んでもいいのではないか、などと思い悩むことがあった。しかし、いつも最後には同じ結論に至った。どんな日も球場に来て、新しいチャレンジに向き合う。そしてそのチャレンジが何であれ、私は受けて立った。なぜなら、私は決して折れることがなく、監督もスタメンに私の名を書き続けたからだ。

 そして記録を破るまで1年足らずとなったころ、プレッシャーはどんどん積み重なり、最後の1〜2週間まで膨らみ続けた。来るべき時のためにみんなから、とてつもない期待が寄せられた。ゴールラインがすぐそこに近づいているのを私は感じていた。

 何年も経ってから当時のことを振り返ってみると、連続試合出場記録は、決して単なる記録ではなかったと思う。愛するチームのために自分がいったい何を為すべきなのか、それを考え積み重ね続けた結果が、この記録になったのだ。球場から見える、右翼側バックスタンドの背後にあるB&O倉庫の外壁に掲げられた垂れ幕が2130から2131に変わった瞬間、私はオリオールズでのキャリアのすべてを思い返していた。そして、オリオールズとともに歩んだ私の人生のすべてを。まるでいまの出来事のようにね。

 そしてスカイボックスにいる父を仰ぎ見たとき、私が幼いころに父がキャンプで選手たちに話していたスピーチを思い出していた。それはまるで我が家に帰ってきたように感じた瞬間だった。

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