My Roots 〜僕を支えてくれる大切な人たち〜
2020-2021年シーズンが終了した。
いま、6月20日。僕は帰国して、香川県高松市の実家に戻ってきている。故郷に戻ってくると、やっぱりここが自分のホームグラウンドだな、とホッとする。
この写真は、ほんの数日前に母校の尽誠学園で撮ったもの。手前に写っているのは高校時代からの恩師、色摩拓也先生。そして、奥で嬉しそうにしているのが、高校時代のチームメイトで唯一無二の親友、楠元龍水だ。
恩師と親友。何気なく撮っただけのように見えるかもしれないが、僕にとってはとても思い入れの強い特別な1枚……。
なぜ僕にとって特別な1枚なのか。
実はそれにもストーリーがあるのだけれど、それはこの文章の最後に記すことにする。ひとまず、一緒に写っている2人が僕にとってどれくらい大切な存在なのか、今シーズンの戦いを振り返りつつ、僕を含めたこの3人の関係が、僕自身の根幹でありいかに大切なものか、エピソードを交えながらお伝えしたいと思う。
NBAでプレーするようになって3年目。
振り返ってみると、今シーズンは自分でも成長できたと実感できるプレーや出来事が多かったように思う。トロント・ラプターズと本契約に至ったことも、もちろんその1つだ。
僕は、メンフィス・グリズリーズと2way契約を結んだときから本契約を一番近い目標としていたので、正式に決まったときはもちろん、自分のことをちゃんと評価してもらえたことが素直に嬉しかった。
ただ、それは直近の目標であって、僕にとってはあくまでも通過点の1つだ。来年の保証がもらえたわけでもなければ、本契約したからといって自分がやるべきことが変わるわけでもない。正直、ホッとしたという感情は全くなかった。
実は、本契約できるという話は、その数日前から聞いていた。
ただ、まだ最終決定ではないし、今後の成績次第でどうなるかもわからないから、とにかくこのままいいプレーを続けてくれ、と言われていた。それでも僕は、すぐに両親と、色摩先生、楠元だけには知らせようと思った。
渡邊雄太はもうとっくにNBAでじゅうぶんに活躍できる選手に成長している
「ちょっと時間ある? いま、電話できる?」
楠元とは普段からLINEや電話で頻繁に連絡を取り合っている。だけど、やっぱり大事なことは直接話して伝えたい。彼も察してくれたのだろう。仕事の合間に電話で話す時間を作ってくれた。
「両親と色摩先生には先に報告したんだけど、正式に本契約になったわ」
そう言うと、彼は笑いながら冗談っぽくこう答えた。
「やっとか。遅すぎるくらいやろ。もっと早く本契約できてもおかしくなかったよ」
実は色摩先生も、報告したとき同じことを仰ってくれた。2人とも、本契約が決まるずいぶん前から「渡邊雄太はもうとっくにNBAでじゅうぶんに活躍できる選手に成長している」と確信してくれていたらしい。
「本契約はもちろん嬉しいけれど、それよりもNBA選手として通用する選手になったこと、NBAでプレーし続けていること自体のほうが嬉しい」と信頼する2人が言ってくれる。その言葉は、僕にとってはある意味で本契約と同じか、それ以上に幸せなことだ。
これからもこの人たちに恥ずかしくない自分でいたい。今回の本契約は、新たなスタートラインに立っただけのこと。これからもNBAで活躍し続けることのほうが大事。それは自分でもよくわかっている。あらためて身が引き締まる思いがした。
苦しい時期にも腐らずに頑張ってきたことがすべていまにつながっている
- 渡邊雄太
楠元とひとしきり話をして電話を切った後、思いがけず、楠元からLINEのスクリーンショットが届いた。それは僕と楠元が過去にメッセージのやりとりをしたものだった。楠元は、ここぞという大事なときは、キッチリとやりとりを残してくれている。
1つは、僕がグリズリーズでプレーするようになって1年目のころのもの。
久々にコールアップされたのに思うようなプレーができなくて、チームに何も貢献できず結果を残せなかったその日。連絡してきた楠元もまた、自分が受け持つチームを勝たせることができなかったと少し落ち込んでいる様子だった。
楠元「相手校に手が出んかった。悔しいねー。上のレベルを痛感したよ。でもやるしかないよな。ここで腐ったら終わりや」
僕「おれも昨日久々にNBAの試合出たけどさっぱりやったわ。いやー、その言葉まじでめちゃ刺さるわ。腐ったら終わりやな」
楠元「諦めたら楽だなって一瞬思うけど、やっぱり違うんよね。逆に完敗して吹っ切れたかな。また頑張ろうってなってる。その繰り返しだよね」
僕「ほんまそれ! おれもここで自分に合格点あげればどんだけ楽やろーって思うときあるわ。でもあくまでこんなとこは通過点やし、こんな自分に満足したらいかんって毎日自分を奮い立たせとる」
楠元「だよな。それができるかできないかが、いい選手になれるか、いい指導者になれるかだよな」
こうやってお互いの胸の内をさらけ出したあと、2人で気合を入れ直す。
「でもやるしかないよな」
「ここで腐ったら終わりだよね」
これが、僕たちのいつものパターンだ。
もう1つは、2年目にGリーグのハッスルでプレーしていたころのやりとり。
僕「調子が全然でん……」
楠元「雄太には実力と技術はあるんだから。気を落とすのもわからないではないけど、自信もって次臨めば大丈夫」
僕「そやなー 切り替えてやっていくしかないか」
楠元「期待してる! 雄太にしかできない最強の壁で最高のチャンスだと思うからね!」
このころ、NBAのコートでプレーできるようにはなったものの、まだ2way契約。ハッスルで活躍して結果も出しているのに、なかなかコールアップされない。これ以上何を頑張って、何をどうすればいいのかわからなくなって、正直気持ちが辛くなっていた。
「お前は高いレベルで頑張ってるよ。NBAに拘らなければBリーグもあるし、スペインリーグもある。いまお前がやっているのは、お前にしかできない挑戦だと思う。誰でもしたいと思ってできる挑戦じゃない。その権利を持ってるんだから、頑張ってほしい」
楠元はいつもそうやって、僕の背中を押し続けてくれた。
僕自身、NBAでプレーするという夢を叶えるために相当の努力をしてきたという自負はある。でもそれを続けてこられたのは、同じように何ごとにも努力を惜しまない親友と、こうやって切磋琢磨しながらやってこれたことも大きいと思う。
過去のスクリーンショットが届いたあと、楠元から改めてメッセージが来た。
「いやーーーー、めっちゃ懐かしいな。あのころのお前に言ってやりたいよ。NBAで30分も試合に出て21点取る日があるよってな~」
楠元の言うとおり、こういう苦しい時期にも腐らずに頑張ってきたことがすべていまにつながっている。そう思うと、本当に感慨深い。送ってもらったスクリーンショットを眺めながら、頑張ってきてよかったな、そしてさらにまた頑張らないとな、と改めて思った。
ただ1人、最初から僕にダメなことはダメだとはっきり言ってくれるヤツがいた
- 渡邊雄太
楠元は、いまでも僕のNBAでのすべての試合を全試合欠かさずチェックし、必ず連絡をくれる。時間の合うタイミングで10分から20分程度、試合の感想を聞いたり、自分なりにはこうだったと僕から説明したり、一つひとつのプレーを一緒に振り返りながら、良かった点、悪かった点を話し合う。いわゆる反省会のようなものだ。
「こういうプレーもできたよね」
「ここ打てたよね。何で打たなかったの?」
どこにチャンスがあったか、何が足らなかったのか、一つひとつ洗い出していく。
反省ばかりではない。良かった部分があれば必ず「ああいう点の取り方、いままでしたことなかったよね」「それって自信になったんじゃない?」とちゃんと言葉にして的確に評価してくれる。
たとえば、今シーズンのある試合の後にこんなやりとりをしたこともある。
「あのとき、一瞬ノーマークになったし、シュート打てたんじゃないの?」
確かにそうだった。ただ、そのときはドリブルからのプルアップ、ジャンプシュートという流れで決まる確率がまだ低くて、自信がなくて打てなかった。
そういった瞬間を、楠元は絶対に見逃さない。
別の試合でまた同じような場面があった。一瞬ノーマークになったタイミングで、今度は思い切ってシュートを打った。だが、そのシュートは大きく外れ、リングには少しかすったものの、エアーボールのようになってしまった。それでも楠元は、こう言ってくれた。
「確かに外れてしまったけど、この間の反省を生かして打てたんだから良かったんじゃない?」
自分一人で振り返ると、打つからには当然決めなければいけないし、あの場面で決められないのは自分の実力がまだまだ足らないからだと反省ばかりが先に立つ。それでも、楠元の言葉を受けて、切り替えて次に向けて考える。
そんなことを繰り返しながら迎えた、4月半ばのある試合。第3クォーターでまた同じような場面。やっと、ドリブルからのスリーポイントシュートが上手く決まった。失敗を繰り返してきた同じ場面でようやく決まったシュートは、何度も反省しながら修正してきたことが自分の成長につながっているということを強く実感できた貴重な1本になった。
その1本をきっかけに、その後シュートの確率は徐々に上がり、特にスリーポイントはどの試合でも高確率で決まるようになっていった。どんなシュートでもある程度自信を持って打てるようになったのは、技術というよりメンタル面での成長が大きかったと思う。
試合で使ってもらえる機会が増えた理由の1つは、オフェンスでの貢献度が上がったからだと思う。渡邊雄太はディフェンスだけでなくオフェンスもできる選手、そういう評価を得られるようになったのは、こうやって一つひとつ細かな分析と評価を積み重ねてきたからだ。
楠元は、高校教師で担任も受け持っている。寮監もしているし、若くして強豪と言われるバスケットボール部のコーチでもある。自分のことだけでも手一杯のはずだ。
にもかかわらず「自分も指導者として学びたいから」と言って、僕のプレーを一つひとつ分析して伝えてくれる。プレー動画をわざわざ編集して送ってくれることもある。そのおかげで、僕も自分のプレーを客観的に見直すことができている。
いまは境遇も仕事も違う2人だが、お互いに胸の内を何でも話せる関係は、昔もいまも変わらない。言いたいことを言い合っていると衝突することもあると思うが、楠元とは不思議とそういう風にはならないし、厳しいことを言われて引きずったりすることもないのだ。
何を言われても素直に受け入れられる理由は、初めて会ったころから彼がどれだけバスケットに対して真剣に打ち込んできたか、どれだけ努力をしてきたかを知っているからだ。そういう人の言葉には、真摯に耳を傾け、それに応えなければならないと僕はいつも思っている。
「仲良しグループ」。高校時代、僕たちのチームは最初のころ、色摩先生にそう言われていた。仲が良いことはいいことだが、コート上ではダメな部分はダメだとしっかり伝え合わないと、チームとしてはどんどんダメになっていってしまう。
僕は当時から背も高かったし、2年生で日本代表の候補に選ばれたりしていたこともあって、周りの部員から少し気を遣われているように感じていた。そんな中、ただ1人、最初から僕にダメなことはダメだとはっきり言ってくれるヤツがいた。当時副キャプテンを務めていた楠元だった。
楠元も言いにくかったと思うが、チームのために敢えて言ってくれているのがわかったから、僕も素直に聞くことができた。そうしているうちに、徐々に他の部員ともお互いの意見をしっかりと言い合えるようになり、チーム全体の雰囲気が変わっていった。「仲良しグループ」から「戦える集団」への変化。それは、間違いなく楠元の気遣いと努力の賜物だったと思う。
高いレベルを目指すなら、ほんのちょっとでも自分に対する甘えを見逃してはいけない
- 渡邊雄太
もちろん、楠元からアドバイスを受けるだけではない。
僕も楠元の話を聞いて、敢えて彼に厳しいことを言うこともある。
楠元も僕も色摩先生のことを「日本一の指導者」だと思っている。楠元は高校教師になり、色摩先生のような指導者を目指して日々頑張っている。
その楠元から、いろいろな仕事を抱えて多忙で、2日間生徒の顔を見ていない、という話を聞いたときがあった。僕はそのことがどうしても気になってしまった。ただ、そのことは本人から色摩先生にも話していて、「ちょっと考えられないと言われた」とすごく反省していたので、その時点では僕からは何も言わないことにした。
自分に厳しいヤツなので、基本的には敢えて僕が言わなくても自分自身で変えていく、変わっていくだろうと思っていたが、そのころはよっぽど忙しかったのだろう。その後も学校に行けなかった、練習が見れなかったという話を何度か聞いた。だから、僕はこう言った。
「いまの楠元龍水は全然魅力がない。前のお前なら絶対そんなことしなかったよな……」
色摩先生ほどの人でさえ、毎日毎日努力を積み重ねている。知識も経験も全く敵わないお前がその程度の努力で色摩先生を超えられるわけがないだろう。バスケットへの情熱でさえも、いまは色摩先生の足元にも及ばないんじゃないか。
見かねた僕は、正直にそう本人に伝えた。
誤解のないように言っておくが、楠元は周りの誰から見てもわかるほどの努力をしている。人の100倍くらい努力していると思う。ただ、楠元が目指しているのは、恩師・色摩先生を超えるような指導者。それを考えると、どんなに忙しくてもやっぱり生徒から目を離すようなことがあってはいけない。高いレベルを目指すなら、ほんのちょっとでも自分に対する甘えを見逃してはいけないと思った。
なんでわかったん? どこに目がついとるん?
指導者というものが、どれほど大変なものなのか。
僕は、色摩先生と楠元の2人を見ていてよくわかる。
指導者がどうあるべきかを考えると、どうしても僕はこの2人を基準に考える。色摩先生や楠元のような指導者になろうと思ったら、並大抵の努力ではなれないこともよくわかっている。
色摩先生が指導者として素晴らしいと思うのは、やはり生徒のことをしっかり見てくれているというところだ。それは、僕が高校生のころから全く変わらない。
わかりやすいエピソードがある。当時、僕たちバスケットボール部はバレーボール部と一緒に体育館を使用していたので、コートが1面しか使えなかったが、週末になると2面使えることも多かった。ある週末、色摩先生はいつも通り、普段バスケットボール部が使用しているほうのコートの練習を見ていて、もう1つのコートでは普段あまり試合に出ていない部員たちが練習していた。すると急に、メインのコートを見ていたはずの色摩先生が、もう1つのコートで一瞬だけ気を抜いたプレーをした部員のことを指導しはじめたのだ。
僕たちはびっくりした。指導された当の本人も、練習が終わった後「なんでわかったん? 色摩先生、どこに目がついとるん? あの場所で別のコート見ながら俺のことまで見れるわけがないやん」と不思議そうに言っていた。
色摩先生は、そのくらいいつも部員全員のことを分け隔てなく気に掛けてくれていて、一つひとつの行動を見てくれていた。部員からしたら、試合に出られなくても、別のコートで練習していても、自分たちのこともちゃんと部員として同等に見てくれていることを感じるし、それが練習のモチベーションにもなる。でも、それは指導者だからといって誰もが当たり前にできることではないと思う。
尽誠学園での3年間がなかったら、いまの僕は存在しなかった
- 渡邊雄太
色摩先生の尊敬すべきところはそれだけではない。
指導者としての経験は豊富なのに、いまも常に勉強し続けていて、新しく得た知識や情報が使えそうであれば、チームにどんどん取り入れていく。例えば、僕たちが高校生のころには「ダメだ」と言っていたことでも、いまの高校生に合うと思えばそれを取り入れることもある。そのチーム、その選手に合わせてバランスよく変化させていくことができるのも、普段から生徒一人ひとりのことをよく見て理解しているからだと思う。
どの世界でも、変化を恐れず新しいものを取り入れることは必要なことではあるけれど、誰もがそう簡単にできるものではないと思う。色摩先生は、常に新しいものを柔軟に取り入れながら、一方で、軸になる部分は絶対にブレない。いまでも僕が大切にしている、色摩先生から教わった大切な言葉。
初心を忘れないこと。
謙虚であること。
感謝すること。
頭を使いながらプレーすること。
サボったり手を抜いたりしないこと。
僕の根幹をなすこういった姿勢は、高校時代に色摩先生から徹底的に叩き込まれた。高校3年間の質の高い練習でしっかりと鍛えたフットワークは、NBAでプレーするようになったいまでもディフェンスに生きている。バスケットIQが高いと僕がアメリカでも評価してもらえているのは、色摩先生から学んだことがベースとなっている。尽誠学園での3年間がなかったら、間違いなくいまの僕は存在しなかっただろう。
これが、まさに僕のルーツ。原点なのだ。
だから僕は、毎年実家に戻ったときには必ず尽誠学園の練習を見学することにしている。自分が高校時代に練習していた場所に戻って、高校生たちの練習を見たり、自分たちのころと同じように部員全員に目を配りながら愛情をもって指導している色摩先生の姿を見ると、こういう日々の積み重ねがいまの自分を作っているんだなとあらためて思い返すことができるからだ。もっともっと頑張らないといけない、という新しいモチベーションにもなっている。
特に、昨年のことはとても印象に残っている。
部員たちはとにかく声を出し、足を動かして、コート中を走り回っていた。プレーを見守る部員たちも、よく声が出ていて、チームの活気と連帯感を強く感じた。
もちろん、尽誠学園の練習が質の高いことは当然身をもって知っているし、これまで見学した練習も、いつ見ても質の高いものばかりだった。
ただ、昨年は置かれている環境がいままでとは明らかに違っていた。3年生の部員たちは、コロナ禍でインターハイも国体も中止となり、ウインターカップも果たして本当に開催されるのかどうかもわからない……。そんな先の見えない中にあって、そこまで一所懸命バスケットボールに打ち込んでいたのだ。
僕はその練習を見て、自分を恥じた。ちょうどそのころ、僕は次のシーズンに向けて、チームが決まらなかったらどうしよう、と少しナーバスになっていたからだ。余計なことを考えている暇はない、母校の後輩たちがそう教えてくれたのだ。
バスケットボールというのは本来、守って走って点を取るスポーツ。シンプルに“原点に返る”という考え方もあるんじゃないか?
色摩先生がいまでも時々、僕にかけてくれる言葉がある。
それは絶妙な言い方で、絶妙なタイミングのマジックワードだ。
「最近どんな感じですか?」
僕は昔から自分の弱いところをあまり見せたくないというのがあって、ストレートに「辛い」「しんどい」と誰に対しても伝えることがほとんどない。でも、色摩先生は、高校を卒業して10年近く経ついまでも、当時と変わらず僕のことを気に掛けてくれているので、僕から何も言わなくても、そういう状況のときにはいつも絶妙なタイミングで連絡してきてくれて、 僕が原点回帰するためのきっかけを与えてくれる。
僕はもともと、スタメン出場するか、ベンチスタートなのかというところにはあまり拘りがない。 どういった形でも、とにかく試合に出ることが一番大事で、試合の終盤でチームの勝利に貢献できるような選手になりたいと常々思っている。
だから、試合に全く出られない状況が続いてくると、いろいろなことを考え始めてしまう。
今シーズン、ラプターズでプレーするようになってから試合に出られないことが続いたころにも、やはり色摩先生は連絡をくれた。そのときに掛けてもらった言葉をきっかけに、僕の気持ちは変化していった。
「バスケットボールというのは本来、守って走って点を取るスポーツ。普段からしっかり判断して考えているからこそ難しく考え過ぎず、シンプルに“原点に返る”っていう考え方もあるんじゃないか?」
そのときは正直、すぐに切り替えられたわけではなかった。でも、その言葉を念頭に置きながらやっているうちに、徐々に「確かにそうだな。複雑に、難しく考え過ぎていたかもしれないな」と思えるようになった。気持ちが変わってくると、自分のプレーのいい部分がどんどん出せるようになっていった。
特にシーズン後半のホームでのオクラホマシティ・サンダー戦、アウェイでのロサンゼルス・レイカーズ戦。この2試合は、終盤までしっかりとコートに立って自分の役割を遂行することができたし、いいプレーができてチームの勝利にも貢献できたので、今シーズンの中でも自分自身の成長を感じることのできた印象深い試合になった。
僕はNBAという舞台でプレーし続けたい。それを実現するために、これからも努力を惜しまない。ただ、その道のりでは、また立ち止まってしまうことが何度もあるだろう。
でも、僕にはサポートしてくれる心強い人たちがいる。
心から信頼し、何でも相談できる恩師と親友。そんな精神的な支えがあるから、僕のモチベーションはいつも高いところで保ち続けることができている。
色摩先生と楠元と僕との3人で撮った、冒頭の写真。
これだけ長い間、これだけ密度の濃い関係を続けてきた3人だが、実は揃って一緒に写真を撮ったことは、ただの一度もなかった。それは、たまたま撮っていなかったのではなく、敢えて撮らずにいたからだ。
色摩先生は、卒業していった教え子に対し自分から積極的に連絡したりはしないが、いつも温かく見守り続けてくれている。相談すればいつでも受け入れてくれるし、必要なときにはそっと手を差し伸べてくれる。そんな先生だ。
だから、写真ぐらい、教え子から声を掛ければいつだって快く一緒にフレームにおさまってくれる。
ただ、僕の場合は少し事情が違った。アメリカに渡り大学時代、あまり調子があがらず悩んでいた僕のモチベーションを上げるために、色摩先生は「雄太がNBA選手になれるまでは一緒に写真は撮らない」と、いわゆる“願掛け”をしてくれたのだ。僕もそれを知っていたから、NBAでプレーできるようになったら必ず一緒に写真を撮りたいと思っていた。
そして迎えた3年目のシーズンオフ。
今回この記事を書くことを口実に、色摩先生にこうお願いさせてもらった。
「一緒に写真を撮りませんか」、と。
色摩先生は、最初は照れ臭そうだったが、快く僕のお願いを受け入れてくださった。
先生の“願掛け”が始まってから、7年。
NBAで本契約を交わし、オフになったこのタイミングで、しかも思い出深い我が母校で、ようやく実現したこの1枚。
まさに、僕の大切なルーツ……。
僕はこの想いを胸に、またコートに向かっていく。