The Miracle
僕の人生を振り返ると、パーフェクトな日が3つあった。
最初のそれは、レアル・マドリーが僕に会いに来てくれた日。
2つ目は、息子のベニシオが生まれた日。
3つ目は、息子のバウティスタが誕生した日。
その3つ目の完璧な日のために、うちの家族は地獄を味わったんだ。
その話をしたいと思う。僕は普段、口数が少なく、物事をうちに留めておくことを好む。でもこの話は、語る必要があると感じている。なぜなら、ほかの人々の助けになると思うからだ。特に僕みたいに、自らの痛みを隠しがちな人には。そんな人は南米にたくさんいるんだ。本当だよ。
ただし、この話をするには、最初から始めなければならない。
僕は今、ひとりの男として話をするわけだが、読者の方には僕が少年だった頃のことを理解してもらいたい。
ウルグアイでは、物事がほかとは異なる。苦労には慣れているよ。僕らが貧しかった、とは言いたくない。というより、僕のママとパパは働き者だった。うん、こっちの方がしっくりくるね。
パパはカジノで警備員として働いていた。ママはフリーマーケットにカートを出して、洋服やおもちゃを売っていた。いろんな箱をぎっしり詰め込んだ大きなショッピングカートを、ママが通りで押しているときの車輪の音は、今でもはっきりと耳に残っている。超人ハルクくらいしか出来そうにないことを、小さな僕のママがやっていたんだよ! でもね、彼女は戦士でもあったんだ。どんなに暑かろうと、寒かろうと、雷が落ちまくろうと、ママはその巨大なカートを押してマーケットへ向かっていった。
時々、僕もついていき、箱の上に座って行き交うクルマを見たりしていた。ママがどんなに大変かってことには、まったく気づかずに。一番大変だったのは、長い一日の終わりにすべての洋服を畳み、すべての売り物をカートに積み直し、それを押して家に帰らなきゃいけなかったことさ! しかもその後には夕飯を作らなきゃならないし、僕の汚い靴下も洗わなきゃいけなかったんだよ! 想像できるかな? 僕が言いたいのは、ママは僕のヒーローだったってことさ。
ママは朝の8時から夜の7時まで働き、パパは午後8時から午前6時まで働いていた。計算すればわかると思うけど、うちの家族には3人揃ってテーブルを囲み、一緒に小さな肉を食べるゴールデンアワーが1時間しかなかったわけだ。そして今、すべてを振り返って驚くのは、ママが僕のために常にコーラを用意してくれていたってこと。いや、当時の僕はソーダに目がなくてね。スペインやアメリカでは、ほとんどの人にとって、取るに足らないものだろう。「ただのコーラじゃないか。タダみたいなものだろ」って言うかもしれない。でも当時の僕にとっては、シャンパンより貴重な飲み物だった。
僕にひと缶のコーラを与えるために、ママが時々、何かを犠牲にしていたかなんて、僕には知る由もなかった。知りたいかどうかもわからなかった、と言うべきかな。子供というのは、物事を知らないよね。ママが食事を取らなかったら、「お腹が空いていないのかな。変なの。僕は腹ペコなのに」なんて思ってしまっていた。
でも今になって振り返ると、彼女の行動の意味がわかる。
一日の終わりに、家族3人でテーブルを囲んで夕飯を食べる。それさえできれば、ママは幸せだったんだ。
僕にとっては、家族全員で毎晩一緒に過ごした日々が、“ラ・ガーラ” なんだ。それはウルグアイで、不屈の精神や決意、勇気、チームワークを表す言葉だ。たとえ1時間でも、家族3人で小さな肉を食べることができれば、僕らは誰よりも幸せだった。
おそらく、うちには家全体を塗り直すほどのお金はなかったかもしれないけど、僕の部屋の壁をひとつペイントした。それだけで真新しく感じられたよ。あるいは、パパが家の外でホースを使って僕に水をかけてくれると、まるで小さなスイミングプールで遊んでいるようだった。
“ラ・ガーラ” というのは、こういったことさ。
それでも、正直に言うと、あのときの自分の環境に傷つけられたこともある。フットボールを始めると、自分より恵まれた友達に出会うものだ。たとえそれがほんの少しの差だったとしても、こっちは恥ずかしくなってしまう。あの頃、僕は友達を自分の家に呼びたくなかった。なにしろ、うちのテレビは無料の3チャンネルしか映らなかったからね! 夏には、夜にベッドへ行くと、部屋の隅でゴキブリの動く音が聞こえたよ。ちなみにベッドというのは、床にそのまま置いたマットレスのこと。スプリングがいかれちゃってたから、真ん中に寝そべるとサンドイッチみたいにはまって、助けを求めて叫ばなきゃいけなくなったりしたよ。あはは。
今となっては笑い話だけど、あの頃はちょっと恥ずかしかったんだ。11歳とか12歳とかの子供たちが、どれだけ残酷になるかはわかるよね。当時、彼らが僕の生活を知ったなら、めちゃくちゃにからかってきたと思う。だから僕は口を開くことがほとんどなく、いつもうちに閉じこもっていた。
だから僕は、自分の神経や感情をフットボールに集中させていたんだ。そしてフットボールを通じて、僕の家族の状況を変えることができた。残念ながら、それは自分自身も変えてしまったけどね。16歳にしてペニャロールでプロになった時、僕は自分のことを神と勘違いしてしまった。少し前までは街を歩いていても誰にも気づかれなかったのに、急に大人たちに囲まれてセルフィーを求められたり、前の週までは知りもしなかった女の子たちから、たくさんダイレクトメッセージが送られてきたりしたんだ。誰もが僕の友達になりたがっているようだった。そんなふうに周囲が突然激変するとどんな気持ちになるか、理解してもらえないかもしれないけれど。
たとえうちの両親のような素晴らしい保護者がいたとしても、そんなふうに道を踏み外してしまうんだ。ソーシャルメディアの時代に成長した僕らの世代にとって、その影響は強すぎるからね。
外国で成功する少年がひとりいたとしたら、その陰で失敗する100人のことは誰も知らない。
- フェデリコ・バルベルデ
ある日、パパがこう言ったことを覚えている。「なあ、誰それ君とはもう遊ばないのかい? 一体、何があったんだ? 彼は君がそこの通りで遊んでいた頃の仲間だったじゃないか!」
でも僕は、ほかの多くの若いフットボーラーと同じように、古い友達から新しい友達に乗り換えていたんだ。
僕がとち狂ってしまったわけではないよ。ただ、生意気なガキだったんだ。フェンスの向こうで待つ子供たちがサインを欲しがっているときに、「はあ、今日は疲れすぎちゃったんだよな」なんて考えることもあった。
彼らは「フェデ! ヘイ、フェデ! 頼むよ!」と叫んでいる。
サインなんて2分で終わったと思うけど、僕は背を向けていた。
そんな過去を振り返ると、胸が痛くなるよ。だってうちの両親は、そんなふうに僕を育てたわけではないからね。実際、その頃の僕は何者でもなかった。ただフットボールをプレーし、夢を追いかけていただけの、どこにでもいる愚か者だった。コーラがあるだけで喜んでいた少年は、どうしてしまったんだろうね。
急に有名になったことにより、僕は周りが見えなくなってしまったんだと思う。そうとしか、説明できないよ。
フットボールのビジネスの側面を知り始めたのも、ちょうどその頃だ。
インターネットで調べると、僕が16歳の時にアーセナルに入団しそうになった経緯が書かれている。でもそれはたぶん、半分が作り話だ。アーセナルに敵意などまったくないけど、僕はイングランドには行きたくなかった。でもそんな時、フットボールのビジネス面が顔をのぞかせるんだ。特定の人たちがやってきては、こんなことを言ったよ。「アーセナルに行きたくない選手なんていないだろ? 君はウルグアイにとどまりたいのか? 頭がおかしいのか!」
でも、彼らの本音はこうだ。「君が移籍すれば、我々は大金を稼げる」
フットボールの世界では、自分の人生は自分自身だけのものではないと気付かされることになる。特に若い頃は、人質にされてしまったような気さえするよ。自分の家族までも、同じように人質にされてしまう。フットボールは貧困を抜け出す手段のひとつで、とりわけ僕ら南米出身者にはそうだ。そして強欲で残忍なハゲタカたちは、それを熟知している。彼らは“親切そうに”、プレッシャーをかけてくるんだ。
「なあフェデ、君がアーセナルに行けば、素敵なベッドと、30分も40分もずっと温かいシャワーのある生活が送れるんだ。そんな生活が欲しくないのかい?」
彼らは僕をロンドンに送り、一週間のトライアルを受けさせた。僕はただただ、居心地が悪かった。物質的なことだけを考えるなら、素晴らしく聞こえるよ。でも、僕らはロボットではない。そのとき、両親はロンドンについて来れなかった。現地の言葉を話せない16歳の少年が、たったひとりで過ごさなければならなかったんだ。
外国で成功する少年がひとりいたとしたら、その陰で失敗する100人のことは誰も知らない。
僕は相当クレイジーだったのか、はたまたかなりの勇気を持っていたのか、彼にノーと言った。家族と一緒に暮らせるうちは、氷のように冷たいシャワーで構わない。胸のなかで、ウルグアイでキャリアを全うしてもいいとさえ思っていたよ。
そんな時、僕の人生を変える電話を受けた。パラグアイで開催されていたU-17南米選手権に参戦していたときのことだ。僕は絶好調で、翌日にアルゼンチンとの大一番を控えていた。僕は自分の部屋にいて、両親はまた別の部屋に泊まっていた。するとママが電話をかけてきて、こう言った。「ねえ、今すぐ私たちの部屋に来なさい。あなたと話をしたがっている人たちがいるの」
チームには門限があり、選手たちは夜に部屋を出てはいけないことになっていたので、「ママ、それはできないよ。じゃあね」と返答した。
電話を切ったわけだ。
するとママがまたかけてきて、「フェデ、今すぐに来なさい。彼らはレアル・マドリーから来ている方たちなのよ」と言った。
絶対に、ママは冗談を言っていると思った。だから僕はすぐに、ママの部屋で何が起きているのかを確かめに行ったんだ。そこには本当に、初対面の男性がふたりいた。ママは目に涙を溜めている。でもママは大体いつも泣いているから、僕はその状況をどう捉えていいのかわからなかったんだよ!
「ママ、悪いけど……」と僕が言いかけると、
「フェデ、黙りなさい。おふたりの話を聞きなさい。あなたにとって、良い話なんだから」とママ。
そのとき僕は、この人たちはきっと、ペニャロールから来たんだと考えていた。新しい契約を交わしに来てくれたんだと思い、16歳の頭のなかでこう考えていた。「よし、これでアルゼンチン戦のために、新しいナイキのかっこいいスパイクを買えるかもしれない。プレイステーションもゲットできるかもな」と。
するとふたりはカスティーリャ語、つまり南米のスペイン語とは異なる言葉を話し始めた。「おいおいすごいな。彼らは、この辺りの人じゃないんだ。でも、本当なのかな?」と僕は思っていた。
すると、2人は「私たちはレアル・マドリーから来ました」と言った。「我々は君がうちのスター選手になれると信じています。ぜひ、君と君のご両親にマドリードへ来てもらいたいのです」
僕はママを見た。そしてエージェントに目を移して、「いやいや、からかっているだけでしょ」って感じの顔をした。
ママは「黙りなさい、フェデ。これは真剣な話なのよ」という感じの表情で見つめ返してきた。
世界には50万人のフットボーラーがいるというのに、マドリーが僕と契約したいって? 嘘でしょ?
僕はいてもたってもいられなくなり、部屋を飛び出した。「パパはどこだ? パパに伝えないと!!!」と叫びながら。
ロビーへ駆けていくと、パパはほかの選手の親と話していたから、「パパ!!! パパ!!! マドリーが来ているんだ!!!!」と息せき切って伝えたんだ。
「なんだって? マドリーが来ているって、どういう意味だ? どこにいるんだ?」とパパ。
「上の部屋に来ているんだ! 彼らは僕と契約を結びたがっている! レアル・マドリーが僕を欲しがっているんだ!」と僕。
パパは僕のことを、世界で一番クレイジーなヤツを見るような目で見て、こう言ったよ。「上の部屋だって??? じゃあなんで、お前はここにいるんだい??? 早く戻りなさい、愚か者が!!!!」
あははは。僕はすぐさま猛然と部屋に駆け上がると、マドリーの人たちはまだそこにいた。夢や幻ではなかったんだ。
これが、僕の人生における最初のパーフェクトな一日だ。なにしろ、ものすごく興奮したパパとママを見たんだから。ママはどんなことにも涙もろい人だけど、パパは岩のように微動だにしない人だ。パパが感情を表すことなんて滅多にないのに、あの時ばかりはちょっと垣間見えた。あははは。パパの目のなかに小さな光を見たんだよ。
「私の息子がレアル・マドリーでプレーする」
このフレーズに、価値をつけることなんてできない。
僕は有頂天だった。でも1、2か月が過ぎると、また人生は僕に足元を見つめるように教えてくれた。いつものようにね。
僕が自分のことをちっぽけな若造だと思い知らされた瞬間について話したい。
そのためには、読者のあなたに理解してもらわなければならないことがある。少しの間、想像の世界で当時の僕になってほしい。
つまり、あなたは17歳だ。その2年前には、床の上にそのまま敷いたマットレスで、サンドイッチ状態になって眠っていた。それなのに今、レアル・マドリーと契約を結ぼうとしている。
そんな状況で、勘違いしないほうが難しいよね。
マドリーに着いたとき、自分はメッシとクリスティアーノを足して2で割ったような存在だと思っていたよ。あははは! でもホントなんだ!
当時の僕を擁護するために言うけど、17歳のとき、自分がどんなに馬鹿かなんて、わからないものだよね。特に周囲からお金を与えられたり、賞賛されたりするとさ。そのコンビネーションは、ドラッグそのものだ。
でも、僕はすぐに目を覚ますことができた。レアル・マドリー・カスティージャでの最初のトレーニングの時、僕は喜びに満ちた表情でドレッシングルームに入って行った。自信満々だったんだ。行こうぜって感じで。実際、練習のことは何も覚えていない。すべてが朧げだ。でも練習の後、全員で着替えていた時のことは、はっきりと覚えている。周りを眺め、色んなものが見えてくると、ほかのチームメイトが着ているものに気づき始めたんだ。
グッチのベルト。
新品のまっさらなナイキ。
ルイ・ヴィトンの財布。ルイ・ヴィトンのポーチ。
言っておくけど、彼らはレジェンド級の選手ではない。ベンゼマやモドリッチ、マルセロのことを話しているわけではない。まだ子供の選手たちについて話しているんだ!
雷を受けたような衝撃的な発見だった。「おい、やばいぞ、フェデ。お前は2ユーロのTシャツを着ているじゃないか」と。
当時の僕にとって、ザラは高価だった。ウルグアイでザラを着ているのは、社長のような人たちだ。でもその更衣室を見回すと、僕の両親の家よりも高い時計を着けている少年が何人もいた。
一瞬にして、打ちのめされてしまったよ。「このスポーツには、レベルっていうものがあるんだ、若造め。お前は何者でもないんだ!」って感じで。
だから僕は、汚れたユニフォームを着て座ったままでいた。シューズさえ脱ごうとせずに。
ほかのみんながシャワーを浴び始めると、彼らがグッチの下着をつけていることがわかった。グッチのパンツなんて!!! そんなもの、いつ発売したんだよ??? いくらするんだ???
あはははは。その時、僕はこう考えていた。「今日ばかりは、自分のパンツに穴が空いていないことを祈る! 神様、ママはランドリーでチェックしてくれたはずだよね」
僕はそこで20分間、なにか本当に重要なことをチェックしているかのように、携帯電話を見つめていた。ただの時間潰しだね。ほかの選手たちは、「何か問題が起きたのか? 大丈夫かい?」とでも言い出しそうな表情で、僕を見ていた。
あんなに自分がちっぽけな存在だと感じたのは、あの時が初めてだったな。
僕は全員がシャワーを浴び終えて駐車場に行ってしまうまで待ち、自分と用具係しかいなくなってから、ようやく服を脱ぎ始めたんだ。
その夜、H&Mへ行き、「この店で一番良い下着を10パックください」と言ったよ。
あははは! その夜には自分自身に対して、こんなことも言ったな。「おい、お前は自分を誰だと思っているんだ? ここはレアル・マドリーだ。お前はクリスティアーノにでもなったつもりなのか? 勘違いするな」
つまり、僕はまだガキだったんだ。
それこそ、フットボールの笑えるところだ。100万人以上のフォロワーがいるとしても、100万ドルを持っているとしても、あるいは人々に君は最高の選手だと言われたとしても、そこにいるのはただの馬鹿な少年なんだ。
そのとき、僕は何も勝ち取っていなかったし、一緒にシャワーを浴びたチームメイトもそうだった。なのに、どうしてグッチの下着なんか履くんだよ? なぜ歯ブラシを入れるために、ルイ・ヴィトンのポーチが必要なんだ? 別に彼らを批判したいわけではない。ただ、僕がナイーブだっただけさ。僕はここでフットボールの世界を開示しているだけなんだ。それがいかに人間を変えてしまうか、ということも含めて。
幸運なことに、自分には両親から教えられた価値観があり、それが礎となっていた。自分が何者でもないことに気づいたとき、僕は自分に与えらているもののすべてに感謝するようになった。
僕が眠るフェザーマットレス。
エアコン。
50チャンネル付きのテレビ。
僕らの新しいシューズを持ってきてくれるキットマン。
なんてこった! これは天国じゃないか!
愛車のBMW X3で選手用の駐車場に入ったとき、僕はフェラーリを運転している気分だったことを覚えている。クルマを停める際、「みんな、気をつけて。傷をつけないでくれよな」って感じで。
その駐車場では、一番安いクルマだったのにね。あははは。でも僕にとっては自分で持った最初のクルマで、それに乗っている自分を王様のように感じたんだ。
それは僕にとって、美しい時間の始まりだった。まだマドリーで何も成し遂げていないただの若造だったけど、そこからひとりの男に成長していくのだから。
でもね、僕のフットボールと人生のすべてを解き放ったものは、ベニシオなんだ。
僕の物語で何よりも重要なチャプターは、父になったところから始まった。
その頃の僕は19歳か20歳のフットボーラーで、カネを稼ぎ、良いクルマに乗っていたけど、まだまだガキだった。21歳にして最初の息子が生まれた時にはじめて、僕の人生は本当の意味で変わったんだ。
それが僕のふたつめのパーフェクトな一日だ。
それ以前は、自分のパフォーマンスのことばかり考えていた。悪かった試合のあとは、丸一日、両親とさえ話さなくなったりしたよ。自分の部屋にひとりで閉じこもり、犯してしまったミスを悔やみ続けた。それが健康的かどうかはわからないけど、レアル・マドリーでプレーすると、世界でもっとも厳しいプレッシャーに晒されるわけだ。だから、完全にコミットしなければならない。
でもベニシオが生まれてからは、試合がひどい結果に終わった後に帰宅しても、人間でいられるようになった。ベニシオが歩くようになってからは、僕が家に着くと、バズ・ライトイヤーを片手に玄関まで走ってきて、ハグしてくれる。息子は僕の試合のことなんかまったく知らないしね。というより、フットボールが何かってことも、まだわかっていない。ベニシオは、ただ「トイストーリーで遊びたい」だけだ。
息子の愛情は、僕をすっかり変えたよ。人間としても、フットボーラーとしても。精神的に僕は彼を必要としている。なぜなら、僕は自分自身に対して、世界中の誰よりも厳しいからね。では妻のミナはどうかって? 彼女は次元が違うんだ! ミナはフットボールに詳しいアルゼンチン人だ。それがどういうことかはわかるよね? あはは! 僕がどんなことに取り組んでいようと、決して満足させてもらえないってことさ。
チャンピオンズリーグで僕らがアヤックスに敗れた時のことは、覚えているかい? 試合後、僕がクルマに乗って腹を立てていると、彼女はこう言ったよ。「嘘でしょ、フェデ? あれが本気だったの? あのパフォーマンスはなんだったのよ。レアル・マドリーの選手って、あんなプレーしかしないの?」
「オレが何も知らないって言うのかい?」と僕。
「あなたはリスクを冒さなかったわ。シュートを打ちなさいよ。あなたのもっとも得意なプレーのひとつじゃないの」とミナ。
いやいや、そんな彼女の分析を完全にかき消すために、ボリュームを上げなければならなかったよ。
最悪なのは、ミナが完全に正しいってことさ。これは彼女には話したことがないから、読まないでくれるといいんだけどね。あははは! ちきしょう!
僕の家族は、本当のフットボール・ファミリーなんだ。ウルグアイ人とアルゼンチン人の組み合わせは、まじでやばいからね。
だから息子が生まれると、物事は大きく変わったよ。
たぶんそれは、僕のママと同じ心境だと思う。トレーニングに向かう前に息子の面倒を見ていると、戦士になれるような気がする。超人ハルクみたいにね。グッチのベルトのことばかり考えていた17歳の頃とは違う。息子のためにプレーすると、超人的なパワーが漲るように感じるんだ。
2021-22シーズンが僕の最高のシーズンになったことは、自分にとってまったく驚きではないんだ。ベニシオが2歳になって人格が芽生え、ひとりの人間に成長していった頃だからね。そのシーズンのチャンピオンズリーグを制したとき、僕はようやくレアル・マドリーに自分の足跡を残せたと思えた。その1、2か月後には、ミナが二人目を妊娠していることがわかった。僕らはこれ以上ないほどの幸福を感じたよ。妊娠の初期段階は、すべてが完璧に進んでいた。でもある日、ミナが医者に行くと、すべてが崩れ落ちていったんだ。
医者によると、今回の妊娠は極めてリスクが高く、もしそのまま続けたとしたら、新生児が生きていく可能性は非常に低いという。だから次の月にあらためて状況を確認すると医者は言ったけど、それまでにできることは何もなく、ただ待つしかなかったんだ。
あなたがこんなことを言われたら、どんな気持ちがするだろうか。
「あなたの赤ん坊は、おそらくダメになってしまう」と。
その痛みを言葉にすることはできないよ。
妻は毎日、心身ともに苦しんでいた。僕もふさぎこみがちだった。僕はすべてをうちに閉じ込めておくタイプの人間だ。もちろんそれが健康的ではないとわかっていたけれど、それが本当の自分なんだ。僕は誰にも泣いている姿を見せたくない。常にそう思ってきた。家族にもね。
両親が夕食に加わり、ママが僕に「フェデ、いいわね」なんて話し始めたら終わりだ。
はい、おしまい。僕はテーブルから立ち、自分のベッドルームに行ってひとりきりで過ごした。一日のうちフットボールをしていない20時間、僕は誰も寄せ付けずにひとりになった。携帯電話もiPadも要らない。ただ静寂に身を沈めていたんだ。
周りのみんなが苦しんでいたから、僕は岩のようにならなければいけないと感じていた。つまり、あるキャラクターを演じていたんだ。強くてストイックで、妻に「神様が望むような形に落ち着くさ」とか言うタイプの。
でも自分ひとりになると、僕は何時間も涙を流した。トイレに15分も閉じこもるようになり、そのうち10分は頭を抱えて泣いていたんだ。試合がある日の朝は、本来なら集中して落ち着かなければいけないのに、ベッドに横たわったまま息子のことをずっと考えてしまっていた。
時にはうまくプレーできないこともあるし、ファンからのブーイングもちゃんと聞こえている。試合後にはメディアの質問に応じなければいけないけど、そこで自分の感情を晒したくなかったし、僕が抱えていることを教えたくはなかったんだ。
それは地獄だった。
今後、同じようなことに直面する人がいたら、僕はこうアドバイスする。自分のように頑固になる必要はない。静寂のなか、ひとりで苦しむ必要はないんだ、と。
4月のビジャレアル戦の後、物事は最悪の事態に発展した。あの見出しのことは、みんな知っているよね。双方の“ストーリー”は、広く知れ渡ってしまった。あんなに醜悪な話を蒸し返したくはないから、これだけ言っておくよ。
フットボールのピッチ上では、なんと言われてもかまわないし、気にしないよ。幸運なことに、僕はウルグアイ人だからね。でも、超えてはいけない境界線というものがある。フットボーラーとしてではなく、ひとりの人間として。
僕の家族について話すなら、それはもう、フットボールのことではない。
あの日、その境界線が破られたんだ。
僕はそれに反応すべきだったのかな? おそらく、そんなことはない。たぶん、家に帰って息子とハンバーガーやチキンナゲットなんかを食べ、一緒にアニメを観たりしていればよかったのかもしれない。でも僕はひとりの人間だから、然るべき時には、自分自身や家族のために立ち上がらなければならない。
メディアが僕のことを暴力的な人間だと表現したのを見て、僕は傷ついた。のちに、それらに書かれた多くの嘘は、真実ではないと証明されたけどね。率直に言って、僕はまったく後悔していないよ。なぜなら、それによって僕は人間として強く成長できたし、僕の家族をより結束させてくれたからね。
神様、ありがとう。あの暗い日々を経て、物事はよくなっていった。
最終的に妻がうちの家族の苦しみを世間に知らせると、僕らを取り巻くもののすべてが変わった。チームメイトやマドリディスタたちが、僕らをどんなに支えてくれたことか。絶対に忘れないよ。うちの家族全員が、彼らを一生リスペクトする。僕がミスパスをしても、彼らは僕の名前を呼んでくれた。実に高い期待で充満しているベルナベウにおいて、そのような行為をしてもらえるのは、ちょっとした奇跡だよ。
8万人の観衆があんなふうに僕をサポートしてくれるなんてね。しかも自分史上最悪の時に。まるで、8万人からハグしてもらったような気がしたよ。
みんな、本当にありがとう。僕に言えるのはこれだけだ。
ひと月半におよぶ地獄を経て、うちの家族に人生で最高の知らせが入ってきた。スキャンした映像によると、第二子はかなり良くなり、妻がそのまま妊娠を続けても問題はなさそうに見えたんだ。もちろん、その後の妻の妊娠生活はかなり緊張したものになったよ。お腹のなかの子を僕らの胸に抱くまで、安心できなかったからね。でも神様のおかげで、うちの第二子バウティスタは、この世に生を受けた。
しかも健康でハッピーに。
うちの家族の奇跡だ。
これが3つ目のパーフェクトな一日だ。
わかると思うけど、僕はフットボールでも人生でも、自分自身に厳しくしている。これまでに満足したことなんて、一度もない。本当の意味で成功したと感じたことはないし、すべてをやりきったとも思っていない。
でもあの朝の病院でバウティスタをこの腕に抱いた時、僕はこう思った。フェデ、君の妻と息子を見てみなよ。これこそ、僕が望んだものじゃないか、と。
勝利の証だ。