太陽に照らされた時間

Jane Barlow

To Read in English(Published Feb 3, 2022),click here.

 マオリには、彼らの種族と太陽に関してある考え方が浸透している。

 どの人間も先祖では繋がっている。太陽は祖先を照らし、そして次の世代に光が降り注がれる。すなわち、我々の誰もが太陽の下で輝く。太陽が過ぎ去る時、与えられた時間をどう生かしたかで功績が評価される。彼らは物事をそうやって見ている。

 素晴らしいアイディアだと思わないか? スコットランド代表キャプテンを退いてから、このコンセプトについて頻繁に考えを巡らせている。そして自分にこう問いかけている。

 私は自分に与えられた時間を生かせたのだろうか?

 自分はどういうキャリアを送ったのだろう?

 自分にとってキャリアとは何を意味したのか?

David Rogers/Getty Images

 何もかもが楽しかったわけではない。当然だけれど、楽しいだけのものになんてならない。

 スコットランド代表キャプテンは、あまりにも重責を感じる立場だった。



 スコットランドのごく普通の子供なら、当たり前にラグビーを選ぶかもしれない。

 ジェドバラで育ったレイドロー家の一員は、ラグビーに選ばれた。

 他のスポーツをやっていたかもしれない。ただ、私のサッカーの実力は平凡だった。テニスは大好きだったけれどね。でも、家系を考えると、テニス選手になるのは許されるわけがなかった。父も、3人の従兄弟もラグビーをやっていた。それに叔父のロイ...あまりラグビーに詳しくない人のために説明しておくと、叔父はスコットランド代表のキャプテンで、ライオンズでプレーし、1984年にグランドスラムを成し遂げた。

 叔父はなかなかの選手だろ?

 言うならば、私はラグビーに挑戦する運命だったのさ!

 振り返ると、私にとってのラグビーは、魚にとっての水のようなものだった。私の故郷ジェドバラは、スコットランドのボーダーズ地方にある。スコットランドラグビーの本丸と言ってもいい。家では、夕食のテーブルを囲んでラグビーの戦術について意見を交わす。私にとって初めてのラグビークラブ、ジェド・フォレストのコーチは父のデイヴィッドだった。母のローナはフィールドで紅茶を淹れてくれた。そのチームでは、クラークとスコットという2人の従兄弟と一緒だった。一族流の挨拶もあって、ロイ叔父さん、従兄弟が集まると、私たちは“レイドロー・クラン(氏族)”と呼び合った。

 幼い頃ですら、プロになりたいなんて考えたこともなかった。でも、2000年4月に父とマレーフィールドに行った時、大きな変化があった。

 スコットランドがイングランドと対戦した時は、国中が大騒ぎだった。全てがまるでお伽話のような出来事があるけれど、あの日もそうだった。私たちは過去10年もの間、積年のライバルに勝てていなかった。あの日はスコットランドらしく、とても寒くて、雨も降っていた。ピッチに水たまりができていたのには本当に驚いた。今でも、父が燻らせていた葉巻の匂いを覚えている。道を挟んだところにあった醸造場から風に乗ってきたホップの香りも覚えている。選手たちは肉体をぶつけ合い、ダンカン・ホッジがスコットランドに勝利をもたらした瞬間、スタジアムの誰もが発狂した。中にはピッチに雪崩れ込んだ人たちもいたほどだ!!

 それまでもラグビーがどういうものか理解していたつもりだったけれど、14歳でカルカッタカップが掲げられる場面を見た瞬間、自分の中に熱い何かが注がれた。

 あの日、スコットランド代表としてプレーしたいという気持ちが芽生えた。

 この狂気的な世界の住人になりたいと思った。

Gary Hutchison/SNS Group via Getty Images

 それから色々なピースが揃い始めたんだ。ユースチームでは上手い方だったから、ちょっとは才能があると思っていた。学業は自分には向いていないと思ったから、16歳で中等教育を終えると進学しなかった。きっと先生たちも同じ考えだったと思う。

 それにラグビーもプロ化され始めた頃で、一丁やってやろうという気持ちになった。

 ジェドでのプレーは荒っぽかった。私は線が細くて、農業や建設業で働く選手たちと一緒にプレーした。30代のベテランは私の太もものような腕をしていたし、なんというか、お高くとまった連中なんていなかった。何度かメンバーから外れたこともあったし、17歳の時には膝蓋骨を脱臼して約1年もプレーできなかった。10代の選手にとっては理想的な流れではない。だいたい、このくらいの年齢の時にアカデミーで才能を認められて吸い上げられる。「もう無理かもしれない」、「認めてもらえないかもしれない」。そんなことを考えてしまうかもしれない。

 そんな時に、エディンバラのトッド・ブラックアダーが私と契約してくれた。その翌日、私はマレーフィールドでクリス・パターソンやマイク・ブレアらに挨拶した。とても緊張していたけれど、興奮もしていた。

 入団してからの半年間は、ほとんど言葉を発せなかった。環境に慣れるしかなかった。辛抱強く、チャンスを待つしかなかった。

 それでも大事なのは、全身全霊をかけて努力することだ。

 当時の私には、チームの中でもとびきりのハードワーカーだった自負があった。私の両親は良い家に住んで、しっかり休暇を取れるよう一生懸命に働いていた。そういう環境で育ったからこそ、人生で何かを得るには、両親と同じように働かないといけないと思っていた。滑稽に思われるかもしれないけれど、当時は大工の仕事もしていた。親方は腕の良い職人で、誇りを持って仕事に取り組む大切さを教わった。階段を取り付ける時も、ドアを磨く時も、良い仕事がしたかった。それが私のプレーにも繋がっている。

スコットランドのごく普通の子供なら、当たり前にラグビーを選ぶかもしれない。ジェドバラで育ったレイドロー家の一員は、ラグビーに選ばれた

グレイグ・レイドロー

 常に成長できるように努力してきた。自分の姿勢を示す一例を紹介しよう。クリス・パターソンが1番手のキッカーだった時代も、私はキックの練習を怠らなかった。時間を無駄にしていると思われていたかもしれない。でも、彼が引退した時に備えておきたかった。そして彼が現役を離れた時、準備万端の状態だったんだ。

 気が遠くなるくらい練習してきた。生まれながらの才能という話を聞くけれど、ハッキリ言ってナンセンス。みんなが知っている選手は、誰もが努力家なんだ。

 簡潔に振り返ると、私はエディンバラに8シーズン在籍し、3年間キャプテンを務めた。最初は周りに認めてもらいたくてプレーしていた。それから自分のキャリア、人生について考え、学び、最高の自分でいることが大事だと気づいた。

 それさえわかっていれば、きっと夢は叶う。



 アンディ・ロビンソンから、私を当時世界No.1(いつもだが)のニュージーランド戦のスコットランド代表メンバーに加えると言われた時のことを覚えている。すぐに電話を取って両親に伝えたら、大喜びしてくれた。少し先走ってしまったけれど、言わずにはいられなかった。

 私のことを知っている人ならわかると思うけれど、私はスコットランド人としての自分を心から誇りに思っている。それにジェドの出身であることにもね。自然の多い風景、河川、静かな町、ハイランド地方が大好きなんだ。小さな国でも、美しい場所はたくさんある。

 ロイ叔父さんのようにスコットランド代表でプレーするのは、私にとって夢だった。

Press Association via AP Images

 あの時はチームメートから連日のように祝福してもらえた。みんな、私にとって代表初招集なのを知っていたんだ。なんというか、まるで誕生日で、かつクリスマスイブの日に昇進を伝えられた気分だった。

 試合のある週末、私たちはオータム・インターナショナルでオールブラックスと対戦した。2010年11月の寒い日で、マレーフィールドには55,000人を超える観客が集まっていた。ベンチにいた私は、今までにないくらい緊張していた。スポーツをやっている人にはわかる感情だと思う。もし自分に出番が回ってきたらと思ったら、興奮してしまうからね!

 それと同時に、「本当に出番が来たら?」とも考えてしまう。

 マイク・ブレアが頭部を痛めた時、ノイズ混じりの無線から「グレイグを出すぞ」という声が聞こえた。本当に自分が出るのか??  それから数分後、私は出場した。自分がスコットランド代表だなんて信じられなかった。

 両親とロイ叔父さんは会場で観戦していた。代表戦出場は、私たち家族にとって歴史的な瞬間だった。そのことを心から誇りに思っている。もう一人のレイドローがスコットランドのジャージーを身につけてプレーできるなんて、本当に素晴らしいことだ。少なくとも私は、これまでのサポートに感謝していた。

 家族の存在なくして、ここまでたどり着くことはできなかった。そう断言できる。

 それから3年後、私たちはサマーツアーで南アフリカと対戦した。ケリー・ブラウンが負傷した関係で、キャプテンを任された。

 あまりにも大きな衝撃だった。こんな名誉を与えてもらえるなんて。

 でも、それからの数試合は緊張して固かった。はじめは気楽に考えていたし、「試合を重ねていけば対応できる」なんて思っていたけれど、そういうものではないんだ。

 私はスコットランドを代表してプレーしたかっただけではなく、スコットランドのために勝ちたかった。

 キャプテンに就任して数試合を終えて、私は助言を求めてロイ叔父さんを訪ねた。ジェドでゴルフをして、それから話をした。私は、ファン、メディア、コーチ、チームメートから感じていたプレッシャーについて叔父さんに打ち明けた。桁外れに注目されていて、もし失敗したら、500万人のスコットランド人をがっかりさせてしまう。

「ロイ叔父さん...私はどうすればいい?」

 彼は一瞬黙った。現役時代を振り返り、その時に得た教訓を思い出しているようにも見えた。そして、一生モノのアドバイスをくれた。

「いいか、ラグビーのことだけを考えろ」

 私は「どういうこと?」と聞き返した。

 叔父さんは「他のことは考えるな。メディア?  好きに書かせておけばいい。名声、噂、勝手な意見、そんなものは放っておけばいい。お前の最高のラグビーをすれば、周りは自ずとついてくる」と言った。

 ちょっとした助言だったけれど、その当時の自分には必要だった。他の誰でもないロイ叔父さんからの助言だ。私は絶対的な真理として受け止めた。

私はスコットランドを代表してプレーしたかっただけではなく、スコットランドのために勝ちたかった

グレイグ・レイドロー

 そして叔父さんは、もう一つアドバイスをくれたんだ。

 彼はいまだに同じことを繰り返し言う。

「スコットランド人でいるのは楽じゃない」と。

 困惑し、思わず「え?」と聞き返した。

 叔父さんは「俺たちの時代は大変な時期もあったんだ」と言った。叔父がプレーした代表は伝説として語り継がれているけれど、当時のスコットランドだって苦戦したんだ。それを聞いて、私は我に返った。私たちは小国なのだ。タイトルを獲得するには格上にも挑まなくてはいけない。

 この先に何が待ち構えようとも、いつか代表を退く時にはチームをより良い形にすると誓ったんだ。

Clive Rose/World Rugby via Getty Images

 良い経験もさせてもらった。2012年にオーストラリアにアウェーで勝てたのは嬉しかったし、それから3年後のワールドカップも素晴らしかった。2016年にマレーフィールドでフランスに勝てたのもすごく大きかった。あの試合は私にとって代表50試合目の節目で、私たちはそれまでの10年間フランスに勝てていなかった。

 より大きな成果は、2018年のカルカッタカップ。イングランドに勝てたのは快挙であり、私たちは10年間もこのタイトルを勝ち取れていなかった。あの日の私たちは、スコットランドのファンが大好きな、流れるようなラグビーを展開できた。ディフェンスも鋼のように堅く、私の時代で最高レベルのパフォーマンスを見せられた。それは、マレーフィールドのスタンドからも感じ取れていたと思う。客席の方を見ていた時、父と一緒に見たスコットランドがイングランドを撃破した試合を思い出していた。あの時とは逆の立場にいる。客席からフィールドを見下ろしていた子供が、今では代表キャプテンとして客席の方を見上げている。

 試合を終えて帰宅すると、私たちはあまりにも高揚していた。そう形容しておくよ。

(ハハハハ)

 アノ時の動画に関しては...何と説明すれば良いかな? 私たちは楽しんだ。少しばかり酒が過ぎたのは間違いない。疲れ果てて、ベッドに転がり込んだ。翌朝の気分は最悪。そして、ふと携帯に目をやった。

PING! PING! PING! PING! PING!

 驚きのあまり、何が起こっているのかわからなかった。

 フィンの彼女が、録画した動画をInstagramに投稿していた。彼は、すぐに削除するよう彼女に言ったけれど、言うまでもなく手遅れだった。

 国中の人たちが、クラブで私とフィンが泥酔している姿を見て目を覚ました。私はどういうわけかシャツの一番下のボタンまで引きちぎっていたけれど、私たちは繰り返し繰り返しフラワー・オブ・スコットランドを大声で歌っていたんだ。

PROUD EDWARD’S AAAAAAAAAARMYYYYY
(立ち向かえ)

AND SENT HIM HOOOOOOOMEWAAAAAAAAARD
(そして暴君を退け)

TAE THINK AGAAAAAAAAAIN
(侵略を断念させたのだ)

 やっちまったよ!

 周りにはアノ動画のまま伝わったと思っている。私たちは勝利を喜び、ラグビーのチームにおいて極めて重要な友情が感じられたと思う。あの試合前のプレッシャーは相当なものだった。1週間ずっと試合のことだけを考えて、自分たちのプレーを磨き、戦術も練りに練った。試合終了の笛が吹かれた瞬間、一生懸命にやってきた甲斐があったと思った。そして感情を爆発させたんだ。

Ashley Western/MB Media via Getty Images

 最初の10秒はうっとりし、それから喜びに変わっていった。

 この時ばかりは、みんなで楽しめるだけ楽しんだよ (^^)

 それから約2年が経ち、私のスコットランド代表キャリアは正式に幕を閉じた。恥ずかしさなんて微塵もないから言わせてもらう。

 代表での時間が終わった時、私は泣いた。

 フランスで代表引退を発表した。ワールドカップで好成績を残せず、スコットランドも世代交代の時期と感じた。それに2人の子供の子育てもあった。自分の競技人生で一番難しい決断だった。私の人生で、それだけ大きなパートを占めていたことだったから。マレーフィールドのトンネルに立つと、独特な雰囲気が感じられる。選手たちの先頭に立ち、仲間、そして国中が後方を支えてくれる。うなじの毛まで逆立つほどのアドレナリンが放出される。そしてフィールドに全力で走って向かうんだ。

 あの感覚は言葉にできない。これが当たり前だなんて思ってはいけない。私はずっと自分にそう言い聞かせてきた。

 あの瞬間が恋しいよ。

 自分の決断については色々と考え、そうやって納得した。ただ、私の引退に関して、周りがどう反応するかは考えていなかったんだ。

 代表引退が報じられてから、私はドライブに出ていた。もう決めたことだったし、自分の決断だったし、これからの人生を考えようと思っていた。そんな時にエディンバラの友人からメッセージが届いた。そこには「友よ、今ニュースを見たよ。信じられない。涙が止まらないよ」とあった。

 それを見た瞬間に私も堪えられなかった。人生の半分近くをスコットランドのためにプレーしてきたんだ。それが自分にとってどういう意味を持つのか考えていた。

 私のキャリアが周りにどれだけの影響を与えていたのか、全く気づいていなかった。



 月面に降り立つ気持ちなんてわからない。けれど、ジェド出身の私にとって、日本行きはそれにかなり近い。

 ワールドカップ期間中、日本は私を高く評価してくれた。日本人はハードワークと謙虚な姿勢をリスペクトする。まさに私が日頃から実践してきたことだ。日本でプレーする機会を与えられた時、私は諸手を挙げた。たった一度きりのキャリアだし、これは私好みの冒険だ。そして、2019年からNTTコミュニケーションズシャイニングアークス東京ベイ浦安所属となり、妻のレイチェルと2人の息子と日本で暮らしている。

 本当に良い国で、私たちも気に入っている。日本の人たちは素晴らしいし、食事も美味しい。人がたくさんいて、どこにいっても街灯があって、まるで映画のような世界だ。夜のレインボーブリッジを渡ってコンクリートジャングルへと進んでいくのが最高だ。

 ジェドを思うと笑ってしまいそうになる。今も故郷のことは大好きだけれど、私が子供の頃は映画館なんてなかった。東京行きは、まるで未来旅行のようなものだ。

 言葉と文化の違いに苦しむこともある。「なんてこった。さっさと荷造りしてスコットランドに帰ろう」と思った日もあった。

 でも、ラグビーと同じように、難しい時を乗り越えて良い結果を出すことに意味がある。子供達は日本のインターナショナルスクールに通っていて、覚えてきた日本語を家で披露してくれる瞬間は最高だ。

Gary Hutchison/SNS Group via Getty Images

 もちろん、終わりが近づいているのは確かだ。あと何年現役でやれるかわからない。この段階になると、キャリアを振り返るのは自然なことのように思える。

 これまでを振り返ると、いつも2つの結論にたどり着く。

 一つ目は、アドレナリンが溢れ出す瞬間が好きなように、仲間に会えなくて寂しい気持ちになる。一緒に戦い、試合が終われば酌み交わした。クリス・ピーターソン、ロス・フォード、フィン・ラッセル、スチュワート・ホッグ、次々に名前が出てくる。

 特別にフィンについては触れておこう。陽気で、生意気なのに、彼は本当に自分のラグビーを楽しんでいる。私はいつだって真摯に、真剣に取り組んでいた。いつだったか、彼に「きっとお前が正しい」と言ったこともあった。フィンのおかげで楽しむことを覚えた。そして、彼が自分のベストを引き出してくれた。彼とは切磋琢磨し合えたと思いたい。

 つまりはこういうことさ。私はフィンのようにはなれない。タイプが違うという理由だけではなくて、私はキャプテンだったから。

 国を代表してジャージーを着て、大好きな人たちを代表してプレーする以上、そのプレッシャーをただ楽しむことなんてできるわけがない。少なくとも私はそうだった。試合が近づけば、必ず勝つためだけに時間を使う。何千、何万人にジャッジされるんだ。

 キャプテンである以上、負ければ誰よりも重い責任を負う。

 だから単純に楽しむことなんてできなかった。

 代表を引退した時、率直に言ってホッとした。

 お願いだから誤解しないでもらいたい。

 スコットランドのためにプレーしたくなかったから辞めたわけではない。プレッシャーから解放されたんだ。厳しい視線に晒されることもなくなった。気楽に、深呼吸して、もっと楽しめるようになった。一般人に戻ったんだ。

 ようやく、太陽に照らされた自分の時間が終わったと言える。次の誰かが輝く番がやってきたんだ。

人生の半分近くをスコットランドのためにプレーしてきたんだ。それが自分にとってどういう意味を持つのか考えていた。私のキャリアが周りにどれだけの影響を与えていたのか、全く気づいていなかった

グレイグ・レイドロー

 最後にもう一つだけ。鏡で自分の姿を見ると、これまでに全身全霊をかけてきたと胸を張れる。肉体のどの繊維も、心も身体も、スコットランドの成功のために尽くしてきた。

 たしかにプレッシャーはあった。でも、私自身が求めたものだ。スコットランド代表キャプテンは、私が成し遂げてきた中で最高の栄誉であり、代表の歴史の一部をちょっとだけ担えたことを心から誇りに思う。

 ラグビーに選ばれて、今も幸せだ。これまでの出来事に感謝している。

 勝利も。

 挫折も。

 苦しみも。

 重圧も。

 心から言える。そして信じてもらいたい。これまでのどの経験もなかったものにしようなんて思わない。絶対に。

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