指一本で人を幸せにできる世界

YUTAKA/アフロスポーツ

 自宅に帰って、気がついたら台所で包丁を握りしめていた。

 震える右手。

 体中には変な汗がびっしょり。

 左手で右手をこじ開けるようにして、やっとその凶器を手放すことができた。

 あのとき、その刃を自分に向けようとしていたのか、誰か他の人に向けようとしていたのか。

 振り返ってみてもわからない。ただ、大好きなハンドボールを頑張りたいのに、頑張れない状態になっていることが苦しかった。孤独が、僕を限界まで追い詰めていた。

 人間は究極的にメンタルな生き物だ。どんなに能力を持っていても、メンタルがぐちゃぐちゃだと半分も発揮することができない。SNSが普及した現代社会では、指一本で人を殺めることもできてしまう。そういうSNSの言葉に振り回される人は、残念ながら少なくない。

 でも実は、自分の心の姿勢を整えることで、周囲からの影響はある程度コントロールできるものだと思っている。

 僕は僕の人生経験でしか語れないけれど、フランスで受けた差別や、TikTokの活動を通してそのヒントを得てきた。

 もし、あなたが何かに生きづらさを感じているのだとしたら、ちょっとだけ僕の話に耳を傾けてもらえると嬉しい。

 僕は、指一本で人を幸せにできる世界のほうが好きだから。

本人Facebookより

 僕の名前は杏利。

 フランス人のお父さんが、かつてのフランス王と同じ響きの名前をつけてくれた。TikTokでは、ミドルネームのレミイからつけた「レミたん」の名で知ってもらっている。友達を笑わせるために始めたんだけど、2年半でなんとフォロワー200万人。若い子たちは、僕がハンドボールの日本代表なんだって、後から知るようだ。

 3歳まではフランスで暮らして、その後は大学を卒業するまで日本育ち。いわゆる“ハーフ”だけど、幸いいじめられることはなかった。ちょっとしたフランス語のフレーズを話すと、「かっこいい!」って羨ましがられるほど。クラスでは一番やんちゃなグループの中心にいるようなタイプで、友達も多かった。

 だから、まさか大人になって渡ったフランスで、自分が人種差別に苦しむことになるとは、まったく思っていなかった。

納得がいかないことに対してはっきりと「NO」を言わないと、自己主張ができないヤツなんだと舐められる

土井レミイ杏利
ⒸBenoit DENIS

 “シントック”。

 フランス語のスラングで、中国人に対して使われる蔑称だ。

 2013年、フランスの強豪シャンベリー・サヴォワ・アンドバルとプロ契約した僕は、当初チームメイトからずっとそう呼ばれ続けていた。初めは意味がわからなくて気にしていなかったけど、意味を知ってからは最悪。普段、見た目的にはアジア系というより南米系に間違われることのほうが多く、意図的に僕を貶める言葉だということは明白だった。

 誤解のないように言っておくと、フランスにはもともとブラックジョークがユーモアとして“ウケる”文化的背景がある。日本人から見ると、他人を落として笑いをとるスタイルが、差別的な発言につながりやすい環境にも思える。さらに、日本の部活動にありがちな上下関係がない代わりに、納得がいかないことに対してはっきりと「NO」を言わないと、自己主張ができないヤツなんだと舐められる。

 日本体育大学で先輩たちにみっちり鍛えられた僕にとっては真逆の文化で、なかなかなじめなかった。言葉も、簡単なフランス語を除けばまだ不自由な状態。何を言われてもとりあえず笑うようにしているうちに、悪循環に陥った。コート上でもパスが回ってこなくて、8歳から好きで好きで続けてきたハンドボールが、まったく楽しくなくなってしまった。

 包丁に手を伸ばしてしまったのは、このころ。

 受け流したつもりでも、差別を受けるたびにストレスが心に溜まっていって、ある日パチンと弾けた感じ。日本ではあれだけ明るく過ごせていたのに、なぜだろう。ハッとして、ここで変わらないと本当に自分はおかしくなってしまうって、衝撃を受けた。「孤独」がもたらす本当の恐怖を実感した。

自分の脳が「成功していたんじゃなかったっけ?」と勘違いするくらい、強く強くイメージする。そうやってメンタルトレーニングを重ねていった

土井レミイ杏利

 ただ、周りはそう簡単に変わってくれない。急に「仲間に入れて」と言ったって、いじめっ子は相手にしないもの。

 だから、自分が変わるしかない。僕は、オフの日に頭の中の悪いイメージを一つずつ良いイメージに切り替えることから始めることにした。

 いままでは笑って受け止めていたけど、次は切り返しでカウンターを食らわせてみよう。

 日本人であることをいじられたら、「お前だってフランス人だから○○なんだろう」と言ってみよう――。

 そんな想像を繰り返した。

 夜眠る前。そのころは、目を閉じた瞬間、その日ダメだったことや失敗したことの映像がブワーっと脳内再生されていた。それを、成功したイメージに置き換えていく。自分の脳が「もともと成功していたんじゃなかったっけ?」と勘違いするくらい、強く強くイメージする。そうやってメンタルトレーニングを重ねていった。まさしく記憶の改ざんだ。

 2週間も経つと、全然違う人間になれた気がした。仲間と笑って話せるようになったし、パスも回るようになった。すると、シュートが入るようになって、試合に出られるようになって、勝利に貢献できるようになって……。いかにメンタルがパフォーマンスに影響するか、あれほど思い知らされたことはない。

写真:L'EQUIPE/アフロ

 本当の意味で本音をぶつけられるようになるまでには2年かかった。

 ある日、チーム成績と個人成績を巡る考え方のすれ違いからチームメイトの1人と大きく衝突して、それをきっかけにやっと訴えることができた。「いつも汚い言葉を浴びながら、俺がどれだけ我慢して笑っているのかわかっているのか」って。

 自分でも情けないほどにボロボロ泣いてしまったんだけれど、初めて殻を破れた瞬間だった。やっと自分を表現できたなって、スッキリもした。チームのみんなは「なんで2年間も言わなかったんだ」ってうろたえながらも理解してくれて、その後は「レミイ」と呼んでくれるようになった。この出来事がきっかけで、チームメイトと、心から尊敬し合える仲間になれた。

孤独を乗り越えた自負があるからこそ伝えたいのは、「何があろうと自分で自分を疑うことだけはしてはいけない」ということ

土井レミイ杏利

 心理学の心得があったわけではない。だから、このとき取り組んだメンタルトレーニングは全部独学で編み出したもの。本で調べて得た知識もあった。

 孤独を乗り越えた自負があるからこそ伝えたいのは、「何があろうと自分で自分を疑うことだけはしてはいけない」ということ。

 差別やいじめを受けているときは常に批判にさらされて、自分は誰にも必要とされていない人間なんだって思ってしまう。でも、僕は自覚的にそれだけはしないように気をつけた。苦しい思いをした分、将来は楽しい人生を過ごす伸びしろがある。自分には無限大の可能性があるということを信じてほしい。

 後は、相手のことも否定しないこと。それをやったら、自分も差別やいじめをする人たちと同じレベルの人間になってしまうから。もちろん、考え抜いた上でそれでも向こうが悪いんだったら、そんなヤツは相手にしなければ良い。ただ、否定から入るより、自分自身を見つめ直すことで解決策を探るほうが、結局周りに人が集まってくるし、自分を豊かにさせると思う。

 孤独を乗り越えるために勉強し始めたメンタルトレーニングだったけど、いまも興味は続いている。もともと哲学的な話が好きだったのも影響しているかもしれない。

 フランスにいるとき、「マインドフルネス」という考え方にも出会った。瞑想などを通じて働き過ぎの脳を休ませ、「いまこの瞬間」に自分の感覚を集中させられるよう、心を整える方法だ。

 脳は1日万単位で思考し、決断している。それを10分間瞑想して休ませるだけで、ネガティブ思考に向かう機能を抑えることができる。アメリカの心理学研究などで科学的に証明されていて、ストレスが排除され、集中力も高まる効果があるそうだ。

LOIC VENANCE/Getty Images

 アスリートにとって有効なのはメンタル面だけではない。

 瞑想は腹式呼吸で行う。息を吐ききると、横隔膜が下がり、重心が安定する。

 何も考えないで無の状態を作るっていうのは意外と難しいけれど、これをすると心も体も整って一石二鳥。ぜひおすすめしたい。

 学ぶうちに気づいたのは、瞑想でつくる「無我の境地」って、実はアスリートが全員が経験していることだということ。俗に言う「ゾーンに入る」状態と同じだと思う。本当に集中しているときって、体が勝手に反応するというか、雑音がフッとなくなる感覚がある。一生懸命考えてプレーしようとしている時点で、集中できていなかったりする。だから、ゾーンに入る感覚をつかむという面でも、アスリートにとって瞑想はすごく有効だと思う。

 日本で瞑想というとどうしても宗教的なイメージが強くなってしまうけれど、それで敬遠するのはもったいない。だって、自殺大国、ストレス社会と言われる日本にこそ必要なものだと思うから。

 日本の相手を敬う文化は決して悪いことじゃないけれど、行きすぎて自分を押し殺してしまったら、それはもうストレスでしかない。社会不適合者と呼ばれてしまう人たちも、自分の不安やイライラをコントロールする方法を身につけたら、違う世界が見えてくるんじゃないかなと思う。

真面目な話を続けてきたけど、TikTok上の僕も素の自分。基本的には明るくて楽しいヤツって覚えてもらいたい

土井レミイ杏利
本人TikTokより

 TikTokでは、そういう現状に苦しんでいる人を含め、見る人がその瞬間だけでも笑顔になれるようなものを投稿するよう心がけている。小さいころからジム・キャリーや志村けんさん、チャップリンが好きで、コミカルな表情や動き、アイディアは、自分の中で培われていたのかもしれない。ここまですごく真面目な話を続けてきたけど、TikTok上の僕も素の自分。基本的には明るくて楽しいヤツって覚えてもらいたい。

 フォロワーが200万人超もいると、時にはアンチコメントもついてくる。でも、万人に好かれることは不可能だとわかっているから気にしない。

 僕は、世界で一番尊いものは「時間」だと思っている。わざわざ敵意をぶつけてくるヤツに時間を削って命を削っていたら、もったいないじゃない。

 一方で、ありがたいことに支持してくれている方々はいて、僕が言わなくてもアンチに対して「それは違う」って指摘してくれる。僕が「いいね」をすれば、「ありがとう!」と喜んでもらえる。わずか0.1秒にも満たない動作で誰かを幸せにできるなんて、こんなに嬉しいことはない。このつながりこそが、僕の人生の財産だ。

 「レミたん」を通じてハンドボールに興味をもってくれる人も増えた。影響力の大きさに自分でも驚いているけれど、大好きなハンドボールを盛り上げていくために、もっともっと活用したいと思っている。フランスの良いところも伝えたい。つらい経験をしたけれど、自分とは切り離せない大好きな国だからね。

 僕の名前は土井レミイ杏利。

 フランスと日本にルーツを持ち、ハンドボール日本代表で、人を笑わせるのが好き。

 いろんな顔があるけれど、時々脳を休ませながら、今日も精いっぱい、僕の人生を生きている。

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