選手としての「終活」 ~新たな章のプロローグ~
ずっと、見えないもう一人の自分と戦っていた。
「日本代表で東京オリンピックをめざす白井健三」
「世界と戦ってメダルを取る白井健三」
「難しい技、Dスコアを狙いにいってこその白井健三」
体は全然動かなくなっているのに、一番輝いていた頃の自分と比べてしまう。
「まだいける」「やらなければ」
心と体はちぐはぐで、どんどん身動きがとれなくなっていった。
オリンピックに出ることだけが正解じゃない
- 白井健三
「きっともう、このまま終わっていくんだろうな……」
2020年の初め頃には、すでにあきらめに近い、半分引退したような気持ちで練習していた。4月の全日本個人総合選手権、5月のNHK杯、6月の全日本種目別選手権。東京オリンピックの選考を兼ねた大事な試合を控えていたけれど、「決勝にすら残れっこない」と確信していた。そして、そんな自分は価値のない人間になってしまったんだと思い込んでいた。
でも、その1年後。全日本種目別選手権で、僕は現役最後の演技を終えて笑った。試合に勝ったからじゃない。「今」の自分にできるベストな体操、自分らしい体操を見せることができたからだ。「選手・白井健三」をいかに終わらせるか。1年間、じっくり準備してきたからこそ、たどり着けたゴールだったと思う。
オリンピックに出ることだけが正解じゃない。だって、僕は今、こんなにも幸せだから。自分のいない東京オリンピックを、心から喜びをもって観戦できたから。
「楽しまなきゃ」って思っている自分に気づいた。頭で考えている時点で、楽しめるはずがないのに
- 白井健三
実は、初めて「終わり」を意識したのは2018年ごろ。高校2年生の時から世界の舞台で戦わせてもらっていて、難しい技をそろえる僕のスタイルだと、選手寿命はそんなに長くないのではないか……という予感があった。
日体大の畠田監督に「2020年に引退する可能性もあります」と相談したこともある。「引退するって決めた状態ではオリンピックに出るな」なんて一蹴されてしまったけれど。
予感はまもなく的中することになった。2019年、感覚のズレからなのか、練習のなかで難しい技をコンスタントに決めることができなくなってきた。初めは、「試合になれば特有のエネルギーが湧くからなんとかなるんだろう」なんて軽く考えていたけれど、練習でできないものを試合で出せるわけがない。無理して難しい技を入れてみても、演技としては全然美しくない。当然、点数は伸びなかった。
物心ついた時からトランポリンで遊んでいて、楽しかったから始めた体操。なのに、このシーズンは「楽しまなきゃ」って自分に言い聞かせていた。頭で考えている時点で、楽しめるはずがないのに。
「結果も出さずに喜んでんじゃねーよ、って思われたらどうしよう」「去年より低い順位で満足かよ、って思われたらどうしよう」
無理して笑顔を作ろうとすると、今度はそんな考えが次々に浮かんできた。あんなにネガティブだったシーズンは、他にない。今まで築き上げてきた「白井健三」を、どうやったら維持できるのか。そんなことばかり考えていた。
この年、6年間選出され続けていた日本代表からも外れてしまった。外れて初めて、「日本代表じゃない白井健三には価値がないって、誰よりも自分が思い込んでいたんだ」と気づかされた。
たぶん、それまでも体操の仲間や先生方は「そんなことないよ」って言ってくれていたんだと思う。でも、全然響いていなかった。2019年シーズン自体、あまりよく覚えていない。思い出したくもないのかもしれない。
いったん、難しい技と距離を置こう。そう思っては見たものの、なかなかうまくいかなかった。やっぱり世界と戦うために磨いてきた武器だったから。他の戦い方を知らなかった僕は、すぐに持っている“剣”を捨てることができなかった。もう、その“剣”はボロボロになっているのに。手放せない葛藤に苦しんだ。その剣を捨てる勇気が、まだなかった。
そうこうしているうちに、気づけば2020年。まだ気持ちの波を行ったり来たりしている段階だった。そして3月、新型コロナウイルスの影響で東京オリンピックの1年延期が決まった。すでに「出場できてもできなくても東京オリンピックを最後にしよう」という思いがあったので、オリンピックが延びたというより、体操人生が1年延びたという実感の方が大きかった。
これが、なかなかつらかった。もう、ここで辞めてしまおうかなって思う自分がいる一方、世間の期待は「復活のオリンピック」というビジョンだということも感じた。誰にも相談できなかった。
「オリンピックはすごく楽しみです」「1年延期したことを精いっぱい生かしたい」
「白井健三」を演じるのはやめようと決めていたはずなのに、メディアの方から質問されると、相反する言葉ばかりが口をついた。一方で、日本体操界の競技力がどの程度かということは、僕にだってわかる。良い選手はたくさんいる。到底届かないとわかっていた。
誰かに与える優しさの魅力みたいなものを感じた。体操選手である以前のことで、気づきがたくさんあった
- 白井健三
4月、東京都に緊急事態宣言が発令されて、大学も練習場も閉鎖に。僕は横浜市の実家に避難することにした。高校卒業後は寮生活だったので、長期滞在は数年ぶり。体操から離れるのも初めてのことで、想像以上に心を動かされる発見が多かった。
気づいたら出てくるご飯。放っておいてもきれいになる洗濯物。そして、体操に関して意見を押しつけることなく、僕の思いを尊重してくれる両親の優しさ。オリンピックについても、もしかしたら両親は陰で期待していたのかもしれない。それでも直接何かを言ってくることはなかった。それがありがたかったし、なんて贅沢なんだろうと、改めて気づかされた。
夏にかけて少し感染状況が落ち着いてくると、実家の体操クラブを借りながら体を動かすようになった。たまに、幼児体育の教室も手伝った。小さい子どもたちが、ただただ楽しく、心から好きで体操をやっている姿を見ていると、いかに自分が「責任」にしか囚われていないかも思い知らされた。
子どもって、好きなものをやる、嫌いなものはやらないって、本能で判断する。それが人間本来の姿。「なんで好きでもないことをやらなきゃいけないんだろう」と思うようになったら、その時点でダメなんじゃないかと思えた。
実家にいる間、たまに僕が両親に料理を作ることもあった。もらった優しさを少しでも返したくて。このとき、誰かに与える優しさの魅力みたいなものを感じた。体操選手である以前のことで、気づきがたくさんあった。
苦しかったことも含めて、自分の経験を誰かに伝えたい。
後輩たちに教えたい。
指導者としてのモチベーションが、僕のなかで芽生えていた。
「オリンピックをめざすことだけが体操選手の存在意義なのか」って考えた時に、「それは違うな」と思えた
- 白井健三
振り返ってみると、自粛期間は昔みたいにバリバリやれるわけじゃない自分を受け入れるための時間になっていたと思う。1年延期が決まる前、どの大会も「オリンピック出場権を獲得するため」という狭い目的でしか見ていなかったけれど、「オリンピックをめざすことだけが体操選手の存在意義なのか」って考えた時に、「それは違うな」と思えた。
一気に気持ちが楽になった。
正直、オリンピックへの思いに折り合いがついたことで、ここでピリオドを打っても良いと思った。以前とは違う、前向きな気持ちだ。ただ、ここで辞めてしまったら、選手を引退したあとの人生でも、何かに立ち向かわなければならなくなった時、途中で辞めてしまうようになるのでは……という思いが頭をかすめた。
もともと東京オリンピックまでと決めていたんだから、とにかく決めたことはやりきろう。どういう形で終わっても良いから、2021年まで選手をやろうと決めた。
ここから約1年、僕はいかにして終わるか、ということを突き詰めるために体操を続けた。もちろん、現役でいる限りオリンピック選考を視野に入れてはいたけれど、自分がどんな演技をしたいかを第一に据えて取り組んだ。
まずは、簡単な技でも良いから、毎日の練習でしっかり成功し続けられる構成を組むところからスタート。いつでもどこでもできる演技構成をめざした。
初めてプライドを捨てて臨んだ2020年12月の全日本選手権。あれだけこだわっていた難度の高い技、たとえば、鉄棒でE難度のコールマンは入れなかったけど、成績は前年より良かった。なにより、他大学や他クラブの先生方に「やっと動きが戻ってきたね」とたくさん言ってもらえた。
あぁ、僕に対する判断基準も難しい技だけじゃないんだなって、ようやく得心した。その後は、難しい技ともすごくうまく距離を取れるようになったと思う。なーんだって、ほっとした。体操を始めた頃の、本来の体操の楽しみ方を取り戻せた気がした。
この頃、僕の心を軽くしてくれた後輩の言葉がある。
「過去の栄光って言いますけど、過去にあるだけ良いですよ」
できなくなったことばかりを数えて嘆いていたけれど、そもそもの成功体験だってなかなか経験できない選手もいる。
ありがたいことに、僕は過去に素晴らしい体験をたくさんしてきた。
「過去にあるだけ良い」
それもそうかって、素直に納得できたんだ。
終わり方としてふさわしい演技、自分にしかできない演技って何だろう。点数でもなく、順位でもなく、ぼんやりとイメージしたのは、それを見た後輩たちに何を残せるかという視点だった。
かつてのように難しい技を入れられなかったとしても、僕の演技から何かを感じ取ってもらいたい。そう考えたら、練習過程から伝えられることはたくさんあるんじゃないかなと思った。オリンピック金メダリストとしての経験値は、なくなるものじゃないから。最後の半年間、どちらかというと試合よりも練習を大事にしていたくらいだった。
迎えた2021年。
4月の全日本個人総合選手権、5月のNHK杯、6月の全日本種目別選手権。オリンピックに向かうためのスケジュールは、例年通り。でも、1年前とはまったく違う気持ちで臨む自分がいた。
体のコンディションはそこまで大きく変わっていない。ただ、「このまま終わっていくんだろうな」という投げやりな思いが、「こう終わりたい」という明確な欲求に変わっていた。
世間体なんかまったく気にせず笑顔になれた。自分の演技ができたなって素直に喜べた
- 白井健三
6月6日、種目別選手権決勝。僕はゆかと鉄棒で試合の舞台に立った。そもそも、種目別選手権は4、5月で一定の成績を残していないと出場することができない。だから、出場できただけでもうれしかったし、決勝に進めたことは誇らしい気持ちでいっぱいだった。
ゆかの演技は、最後の4回ひねりが3回半になってしまったけれど、Dスコア6.9点、Eスコア8.233点、合計15.133点。最終2位で表彰台に上がれた。自分にとっては価値のある2位。僕を高みに連れて行ってくれた種目だったから、うれしかった。
1年前の自分だったら、「過去6連覇もした人間がなんで2位で笑ってるんだよ」って、卑下していたかもしれない。でも、この日、僕は世間体なんかまったく気にせず笑顔になれた。自分の演技ができたなって素直に喜べた。
もっとうれしかったのが、鉄棒。昔から、ゆかは練習しなくてもできるくらいの感覚でやってきた自負がある一方、鉄棒は大学入学以降、いろんな方々の指導を受けるなかで成長してきた種目。正直、今回はあまり結果にも期待していなかったので、決勝に進めたことが感慨深かった。あの場で名前をコールされて、手を挙げられたことが、僕の体操人生の一つの証しだと思えた。
それこそ、落下はあったけれど、構成として一時期外していたコールマンも入れ直した形で実施することができた。Dスコア6.100 、Eスコア7.266点、合計13.366点で7位。生涯忘れないと思う。
選手としての体操人生に、未練も後悔も一つもない
- 白井健三
引退を発表した時、「早すぎる」という反応が大半だった。でも、選手でいることが嫌になってやめたんじゃなくて、指導者としての第一歩を早く踏み出したくて選んだ道。退くタイミングとしては間違っていなかったと思っている。
「選手としての体操人生に、未練も後悔も一つもない」
引退会見でもそう答えた。1年間、どうやって選手生活を終わらせるかという「終活」を続けてきたようなものだったので、寂しさもなかった。周りが驚くなか、次の日から日体大のコーチとして新たな人生を走り出していた。
今もやりたいことがありすぎて時間が足りないくらい。僕が世界で経験してきたこと、メンタルの作り方、試合前のコンディション調整。持っている財産を、学生たちに投資していきたい。
次にやりたいことが決まっていて、次へのモチベーションが高かった。結局のところ、これが、選手を終えた時に未練を持つことがなかった理由だと思う。
もちろん、まだまだ指導者としては未熟。自分の経験をただ押しつけるだけの存在にもなりたくない。だから、今は積極的にいろんな仕事を受けるようにしている。東京オリンピックにも、解説者として関わらせてもらった。自分の意見を言葉にする難しさを痛感してばかりだったけれど、今後も新しいことにどんどん挑戦していきたい。
これは「白井健三」が終わるストーリーじゃない。
新たな章のプロローグだ。
誰かの目を通した「白井健三」ではなく、自分が思う姿で書き進めていきたい。どんな新しい「白井健三」に出会えるか、僕も楽しみだ。