今のこの状況が信じられるかい?

Kyodo News via Getty

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3年前の今頃、僕は文字通り、9時5時の仕事をしていた。

いや、実際は5時3時だった。朝5時から午後3時までの仕事だったんだ。

それは2020年、マイナーリーグのシーズンがキャンセルされたあとのことだ。僕はフロリダのジュピターで行われていた春のキャンプから、エルセグンドの実家に戻っていた。最初は本当に最高だったよ。目が覚めたらボールを投げて汗を流し、友達のアンジェロとチップス(本名はジョン)と一緒に南カリフォルニア大学へ行ってね。キャンパスの近くにクルマをとめて、USCトロージャンズのバッティングケージに忍び込んで。警備員の目を盗んで、Go Go Go! とフェンスを飛び越え、壁の隙間に入り込んでさ。楽しかったよ。

ところがある夜、バッティングの練習から戻ってくると、両親から座るように言われ、彼らはこう切り出した。「いいかい、あなたのことはとても愛しているよ。でも毎日、ここで一日中バッティング練習しているだけではだめだ。何か仕事を始めなさい」と。

だから僕はノースロップ・グラマンという航空宇宙産業関連の会社で、契約社員として肉体労働を始めた(こちらもプロ野球選手の友達のアンジェロは、スーパーマーケットで食料品を袋詰めする仕事に就いた)。週に6日、目覚まし時計を早朝4時にセットしてね。4時45分に仕事を始め、一日中ネジでダクトを繋ぎ合わせたり、機械のパーツにやすりをかけたりしていたよ。そして午後2時57分に仕事を終えていたんだ。

ものすごく疲れる仕事だったけど、自分自身について、本当に多くのことを教えてくれるものだった。

僕はそこの同僚のみんなが大好きだった──実に素晴らしい人々だったんだ。今でも連絡を取っている人は何人かいる(僕にその仕事を紹介してくれたOGこと、“オリジナル・グレッグ”によろしく!)。ただ彼らが毎日やっていることは……簡単じゃない。それができる人たちには、最大限の敬意を払っている。でも僕はといえば、いつでも野球がしたかった。

黒づくめの格好で工場にクルマで向かい、いつもクタクタに疲れている自分自身に、こんなことを言い聞かせていたよ。「もし野球に全力を尽くさず、その道が閉ざされてしまえば、残りの人生はこうして過ごすことになるんだぞ。チャンスは一度しかない。野球が本当に自分の夢ならば、なにがなんでもそれを実現させないとな」と。

それにしても、時の流れは早いね。

目覚まし時計を早朝4時にセットしてね。4時45分に仕事を始め、一日中ネジでダクトを繋ぎ合わせたり、機械のパーツにやすりをかけたりしていたよ。

ラーズ・ヌートバー

僕は家族全員がアスリートの野球一家に生まれたんだ。まずはそれを知ってもらいたい。父さんはカリフォルニア・ポリテクニック州立大学サンルイスオビスポ校でプレーしていた。母さんは日本で史上最高のアスリートだったと、よく自分で言っていたね(実際、すごく上手いんだ。嘘じゃないよ)。そして小さい頃からの筋金入りの野球ファンだ。オリオールズ傘下のチームでプレーしていた兄さんのナイジェルは、僕のロールモデルだ──常に目標としていた人だね。バレーボールの選手だった姉さんは今、トレーナーだ。大学1年生の頃は陸上の選手でもあった。

そして、僕だ。

生まれてから初めての記憶のひとつは、こんなものだ。ブレーブスの試合に出場するために母さんと手を繋いで実家の近くのティーボール場へ歩いて行き、国歌斉唱とリトル・リーグ憲章の時、母さんは僕に手を胸に置くように言った。同じ年、僕が三塁のブライアン・ゲレーロを避けようとしてラインアウトになって、それでシーズンが終わってしまったことも覚えている。あの敗北はものすごく辛くて、尾を引いたよ。実際、今も胸にしこりがあるくらいさ。

当時は5歳だったけど、その頃から僕にとって勝ち負けは重要なことだったから。

Courtesy Nootbaar Family

それは野球に限ったことではなかった。キング・オブ・ザ・ヒル、マッシュボール、アメリカンフットボール、ウィッフルボール、ピックアップ バスケットボールなど、あらゆることにおいてね。友達との勝負ならなんでも、僕は生死に関わることのように捉えていたんだ。

週末には、目が覚めると、誰よりも早くレクリエーション・パークへ行った。ひとつ余分に持っていったスウェットを公園事務所の女性に渡して、そのお返しにバスケットボールを受け取り、誰か友達が来るまでシュート練習さ。その後、10人が揃ってフルコートのゲームができるまで、1対1、2対2、4対4の勝負をした。1、2時間後には、バスケットボールを事務所に返し、今度はフットボールを受け取るんだ。あたりが暗くなると家に戻って寝て、次の朝には同じことを繰り返す。そんな毎日だったよ。

いや本当に、勝つことしか考えていなかったんだ。少なくとも、負けたくはなかった。相手を倒すこと以上に、重要なものなんてなかったからね。大声で言い合ったり、殴り合いになったりすることもあった。負けると──そんなことはほとんどなかったけどね(笑)──、イラついていたよ。負けるのが大嫌いだったからさ。試合中の自分は、嫌なヤツだったと思う。それにどんなにたくさん試合をしようと構わなかった。いくら勝っても、たった一度の敗北が、僕の気分を台無しにしたからね。

歳を重ねても、負けず嫌いの性格はまったく変わらなかった。ただ、もとから自分のなかには何かを掻き立てるものがあって、それが大きなモチベーションになっていったと感じている。それは今でも時々感じるものなんだ。誰かに見くびられたり、僕なんて大したことないと思われたりすると、それが本当かどうか試してみたらいいって思うんだ。

つまり、もっとも適した言い方をするなら、僕は挑戦的なヤツってことなんだろうね。



始まりは、南カリフォルニアのエルセグンドでの高校生の頃だった。野球とアメリカンフットボールにおいては、そのエリアで最高の選手のひとりだと、自分ながらにそう思っていた。でも僕に本気で注目する人は、誰もいなかった。

当時、ロサンゼルスの高校で活躍するすべてのビッグネームのことは知っていた──名前も所属チームもね。私立校の選手は、頻繁にスカウトのオファーを受けていたよ。記事を読んでいたし、騒がれてもいたから知っていたんだ。でも僕のことは? 誰も知らなかったね。たまに褒められることはあっても、いくつかのカレッジから声をかけられるくらいで、プロのスカウトには見向きもされていなかった。僕の半分くらいしか努力していないような選手が、チヤホヤされていたんだ。まったく理解できなかったね。

何だよそれって、超イラついたよ! でも実際、その頃の僕に対して「おい、ちょっと待て。ラーズ・ヌートバーが打席に立つぞ」とか言いながら、すべてのスカウトがノートを取り出すなんてことは、一度もなかったんだ。

だから、僕は完全に軽んじられていると感じていた。でもそれが自分にとっては良かったんだ。

そして出場したすべての試合で全員に、僕がメディアで騒がれている選手より優れていると、知らしめようとした。僕はエルセグンドの公立校の選手で、誰にも注目されていなかったから。

そしてあの気分や、あの軽視によって、人々が間違っていることを証明したくなった。でもそれはさっきも言ったように、自分にとって良いことだったんだ。

Courtesy USC

それから数年が経ち、USCで3シーズンを終えた後にドラフト8巡目で指名された時は、自分の実力が証明されたような気がしたよ。でも同時に、もっと早い巡で指名されるはずだとも思っていた。大学3年生の時は調子が悪かったから、8巡目くらいが妥当だったかもしれない。それでも、もっと早い段階で名前を呼ばれたかった。だから指名のラウンドが進んでいく間、僕は以前と同じ気持ちを抱いていた。誰も僕のことなんて注目していないんだ、と。一体、彼らは何を考えているんだ? 僕はまた、ひとりでイライラしていたよ。

そんな時に、とても嬉しい出来事が起きた。セントルイス・カージナルスに指名されたんだ。

ものすごく幸運な気がしたよ。ドラフトでは何が起こるかわからないからさ。球団に指名してもらうしかなくて、こちらからは何もできない。しかも僕を欲しがってくれたのは、ただのMLBのチームではない。実に偉大な球団だ。名門であり、勝者だ。

もう何巡目に指名されたかなんて、どうでもよくなった。僕は球団へ赴き、アンダースロットで契約した。その時の心境はこんな感じだった。セントルイスは僕にとって約束された球団で、だからこそ僕を指名してくれたんだ、と。そこでプレーするのが待ちきれなかったし、心からワクワクしていた。ところが……。

全然うまくいかなかった。

実家から遠く離れた場所にいたので、家族も友達も近くにいなかったし、お金も稼げていなかった。バスで移動を繰り返し、やることだけはたくさんあった。スポーツで初めて、衝撃的な落胆を味わったんだ。

ラーズ・ヌートバー

いやいや、あんなに自分がダメだったとはね。2018年はペンシルバニア州ステートカレッジでのショートシーズンに臨み、完全に打ちのめされた。ほんとにひどいものだったよ。打率.227、三振は四球の倍以上。突然、自分のことを疑い始め、何度も眠れない夜を過ごした。マジできつかったよ。あんな気持ちは誰にも味わってほしくないな。

実家から遠く離れた場所にいたので、家族も友達も近くにいなかったし、お金も稼げていなかった。バスで移動を繰り返し、やることだけはたくさんあった。スポーツで初めて、衝撃的な落胆を味わったんだ。しかも若い頃というのは、そんな苦境にどう対処すればいいのかわからないものだよね。少なくとも、僕にはわからなかった。だから、自分のなかで嫌な考えがどんどん膨らんでいった。ある夜、ひとりで座りながら、こう自問自答していたことをはっきりと覚えている……。

一体、お前はどうするんだ?

そして最終的に、ふたつの道があることに気づいた。ひとつは、すべてが順調に進んでいるフリをして、あんな結果もまったく気にしていないように振る舞っていく。もしそちらを選択していたら、たぶんもう1、2シーズンだけプレーして、僕のキャリアは終わっていたはずだ。実家に戻り、周りの友達にドラフトされた時のことや、プロ野球選手とその生活について語るような日々に落ち着いていっただろう。あるいは、より大変な方になるけど、すべてを野球に捧げて、どこに辿り着けるか試してみる。最高の舞台に到達するために、とにかく全力を尽くしてみる。チャンピオンのように振る舞い、言い訳はしない(ヴィンス・ヴォーンみたいに)。

Courtesy Nootbaar Family

そのオフシーズンに実家に戻ると、過去にやったことがないほどのワークアウトに励んだ。そのオフだけで9キロ以上減量し、ほぼ毎日のように打撃と守備の練習に取り組んだ。長く試合から遠ざかっていると、それまでになかった視点も得られた。そしてトレーニングは自信を与えてくれた。2019年の末にはダブルAに辿り着き、すべてが上昇しているように感じた。僕は再び軌道に乗り、メジャーリーグを視界に捉えるようになった。当時、僕はこんな風に考え始めた。2020年は、自分の名前を世に知らしめる時だ。重要な一年になる。だから、オフシーズンにはまたハードワークを重ね、やってやるぞ、と気持ちを奮い立たせたんだ。

そんな時に、コロナがやってきた。

なんてこった。

すべてを野球に捧げて、どこに辿り着けるか試してみる。最高の舞台に到達するために、とにかく全力を尽くしてみる。チャンピオンのように振る舞い、言い訳はしない。

ラーズ・ヌートバー

すべてが閉ざされることになり、僕は実家に戻った。その頃は、自分のキャリアにとって最悪なことが起きるのではないかと感じたよ。でも今になって振り返ってみると、あの閉ざされた日々こそ、フィールドから離れざるをえなかった時間こそ、今の自分を形作るために極めて重要だったと確信している。なぜなら、あの航空宇宙企業に務める前の4週間、つまり試合が中止された直後の数週間は、USCのケージで自分のスイングを精査し、改良することを学べたから。それまでになかった形でね。

友達のチップスはノートパソコンにK-Vestを入れていて、僕にも使わせてくれたんだ。彼はこんなふうに言ったよ。「君は攻撃面に優れているけど、もっともっと改善できることがある。たくさんね。それらに集中して取り組まなければ、良くなっていかないよ」

その時から、データ分析を取り入れた練習漬けの日々が始まった。毎日、ノートパソコンを開いて座るチップスの前で僕がバットを何度も振り、何時間もかけてすべての映像を分析。スイングに入るアングル、打球の初速、全体の流れ、バットスピードなど、あらゆる側面をモニタリング。そしてすべてのウィークポイントを改善すべく、さまざまな練習法を試し、トライアンドエラーを繰り返した。

ノースロップでの仕事をするようになってからも、勤務後にトレーニングと技術的な練習に明け暮れた(アンジェロも時々、仕事着と名札を付けたまま、僕らのバッティング練習に顔を出した)。それを3カ月続けると、僕は以前と完全に異なる選手になっていた。コロナの制限はいたるところにあったけど、僕はできるかぎりトレーニングをして、とにかく自分の野球の能力を高めていったんだ。

もう二度と、早朝4時に目覚まし時計をセットしなくて済むように。



それからの数年はあっという間に過ぎ、今、ここにいる。率直に言って、今のこの状況が信じられるかい? って、そんな心境だよ。

リーグでも最高のファンを持つ歴史的なフランチャイズで、ノーランやゴールディ、ウェイノーといった選手たちとプレーしているなんてね。これ以上に良いことは想像できないよ。

しかもWBCにおけるすべての経験は、それとはまた別のことなんだから。

おかしなことに、日本代表に加わる時、僕はその後の成り行きをちょっと心配していたんだ。何年も前から、母さんは日本で野球をすることについて語ってくれていた。彼女は30年以上前に住んでいた日本の野球を、とても鮮やかに覚えているんだ。だから彼女はこう言ったよ。「よく覚えておきなさい、ラーズ。本当よ! そこでは常にトレーニングをすることになるわ。バントの練習が4時間も続けられ、フィールドにはお辞儀をしなきゃいけないの。日本では、野球は宗教のようなもの。みんなが観ているんだから」

そんな母さんのせいでナーバスになっちゃってね。身長150センチほどの日本人の母さんが、僕を心底怖がらせたんだ。

でも実際に合流すると、コーチ全員がとても親切で、いつも僕の身体の状態を訊いてくれたり、休まなくていいかと気にかけてくれた。母さんが言ったようなことは、ほとんどなかったわけだよ。少なくとも、練習やフィールド上のことに関してはね。ただファンや観客については、母さんが完全に正しかった。ものすごく熱狂的なんだ。

僕を乗せた飛行機が空港に到着すると、いたるところにカメラやレポーター、そしてファンがいた。彼らの日本代表の追いかけ方は、僕がこれまでに見てきたものとはまったく異なるものだった。

初めに僕らが名古屋から東京ドームに移動した時、それはまるで国民的なニュースイベントに参加しているようだった。バスの窓の外を見ると、人々は手を振ったり、叫んだりと、とにかく熱狂していたよ。大谷翔平とダルビッシュ有という日本で最も人気のあるふたりと一緒に座っていると、こんなふうに思えたな。これはまるで、60年代のビートルズを乗せたバスみたいじゃないか ってね。

そして僕が何本かヒットを打ち始めたら、どこに行ってもたくさんの人に囲まれるようになった。今から話すことは、もしかしたら言っちゃいけないのかもしれないけど、ある時から、翔平と有、翔平の通訳の一平、そして僕は、新幹線の駅へ向かうチームバスに乗らないように言われたんだ。あまりにも多くの人がバスを囲むようになっていたからね。黒塗りのセキュリティー用のバンにこっそり乗せられ、スーツを着た人がやってきて、「ではクルマを降りたあとは、普通の通りではなく、首相が使う秘密の地下通路を通ってください」と言ったよ(もちろん通訳を通して聞いていたんだけどね、ハハハ)。

なんだか、映画か舞台の世界みたいだったね。

なにしろ、あんな経験は一生に一度のことだったからさ。すべてを受け流して、クールに気取ったりするような真似だけは、絶対にしたくなかった。

ラーズ・ヌートバー

もちろん僕はといえば、携帯を取り出して、そのすべての景色をビデオや写真に収めていた。大きく目を見開いた旅行者みたいに。チームメイトはそんな僕を見て、「なにしてんだよ」って感じで、呆れたり、笑ったりしていたけどね。

でも僕自身は全然、恥ずかしくなかった。めっちゃ最高だったよ!

なにしろ、あんな経験は一生に一度のことだったからさ。すべてを受け流して、クールに気取ったりするような真似だけは、絶対にしたくなかった。一部のチームメイトたちにとってはなんてことない状況だったのかもしれないけど、自分には新鮮だった。僕、ラーズはエルセグンドのレクリエーション・パークからやってきた若者だ。そんな自分にとって、まったくもって信じられない日々だった。だからずっと、キャンディーストアでウキウキしている子供みたいだったと思う。ものすごく嬉しくて、誇らしくて……。そんな気持ちを隠すなんて、考えもしなかったな。

あの時の僕の心境を想像してみてほしい。最初の試合でいきなり先頭打者を任されたけど、何を期待されているのかわからない。バッターボックスに足を踏み入れると、球場全体の5万人ものファンが、僕の応援歌を歌い始めてくれる──お祖父ちゃんから受け継いだ僕のミドルネーム、達治のコールとともに。今考えても、感情が込み上げてくるよ。

大会が始まる前、母さんはその応援歌がどれだけ特別なものかを教えてくれたよ。「日本のファンがあなたに敬意を示して歌ってくれるかどうか、私にはわからないわ。あなたは日本のプロ野球選手ではないから。それでも、彼らは歌ってくれるかもしれないけれど」と彼女はずっと言っていたんだ。

そして彼らは僕の第一打席から歌ってくれた。母さんとお祖父ちゃん──オリジナルの達治だ──が、スタンドから見守ってくれていたなかで。

僕は初球を打ち返し、このマジカルな冒険がどんなスタートになるか試してみた。すると、クリーンヒット。よし、やっちゃおうぜ!

いやほんとに、あの応援歌と初打席は人生でもっとも光栄に感じた瞬間のひとつになった。絶対に忘れないよ。

そうしたすべての出来事に加え、必ず触れておかなければいけないのは……翔平のことさ。

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もちろん、誰もが翔平の記事をたくさん読んだり、話を聞いたりしてきたと思う。彼のプレーも見たことがあるだろうし、彼がどんな選手かも知っているはずだ。あなたも、僕も、みんなが彼のことを知っている。

でも僕がここで言いたいのは、大谷翔平が野球選手としてよりも、人間として素晴らしいってことさ。翔平ほど、適度な自信を保ちながら、リラックスして周囲と触れ合う人はいないよ。飾ったところがまったくないんだ。みんなもわかっていると思うけどね。

​​クラブハウスで彼と初めて会った時、僕はちょっと内に閉じこもっていた──知っている人はひとりもおらず、言葉も話せず、色んなことに緊張していたんだ。ロッカーから荷物を取り出そうとした時に何かを落としてしまって、振り向くと……翔平と一平がこちらを見ていた。恥ずかしながら、僕は憧れのスターに会えて舞い上がってしまったよ。すると翔平はにっこりと微笑んで、英語でこう言ってくれた。「ヘイ、ラーズ。君の家族は元気かい?」と。この瞬間に、僕の緊張は解きほぐされたんだ。

そして大会中は、彼も僕らと同じ、ひとりの選手でいてくれた。日本では、年齢や敬意が非常に重要視される。でも翔平は、チームでは割と年齢の高い方だったというのに、常にこう言ってくれたよ。「僕には同い年の選手のように接してほしい。敬語も要らないよ!」とね。彼は常に、チームメイトと同列の存在であろうとしていたんだ。

あれほど才能に恵まれているというのに、あんなに慎ましくて親切なんてね。ものすごく感銘を受けたよ。彼のことはどれだけ良い言葉で表現しても足りない。そして今、彼のことを友達と呼べる自分がものすごく誇らしいんだ。



WBCは最高に楽しかったよ。日本代表の一員として大会を制し、家族孝行もできたし、僕が愛する国と文化を肌で感じられた。しかも可能なかぎり長く留まることができたんだ。信じられないよね。

これを読んでくれている日本のファンの方々も、日本代表の偉業によって誇りを感じてくれていたら嬉しいな。

僕は今、アメリカに戻り、完全に別のことに集中している。カージナルスのためにベストシーズンを送り、チームが再びワールドシリーズに行けるように、すべてを捧げているんだ。

この街とここのファンのためにプレーできて、本当に幸運だと感じている。こんなことを言うと変かもしれないけど、セントルイスは僕が育ったエルセグンドを思い出させてくれるところがあるんだ。どちらの街も、明けても暮れてもベースボール。互いに助け合う素晴らしい人々もいる。それにどちらも……世界でもっとも大きな街ではない。ニューヨークでもなければ、ロサンゼルスでもない。でもそれに引け目を感じたりせず、誰もがありのままを楽しんでいる。ただ、どちらの人々もちょっと挑戦的なところがあるかな。なぜなら、僕らは大都市にないものを持っていると自負しているから。僕らは自分の街にあるものと何かを引き換えようとは、絶対にしないね。でも、人々は大都市ばかりを称え、ほかの街には目を向けようとしない。

ノーサンキュー、僕はここで十分だ。ここで手にしたものを大事にしたいから、どうもありがとう って感じかな。

Steph Chambers/Getty

僕はセントルイスでプレーできているから、ほかには何も要らないよ。

ベースボールのシーズン中は、街中が大騒ぎになるんだ。僕にとってここは……野球天国みたいなものだ。毎日かかわっているチームメイトやコーチングスタッフ、トレーニングスタッフ、強化スタッフ、広報チーム、ファン──つまり全員が、かけがえのない人たちなんだ。僕は本当にものすごくラッキーな男だよ。

これは実際に僕が毎日、よく思っていることなんだ。自分がいかに幸運かってことをね。

実家で暮らしながら5時3時の仕事をしていた頃から、たった1年後の21年にメジャーリーグに到達し、キャッチャーのヤディアー・モリーナやクラブハウスでロッカーが近いアダム・ウェインライトやジョン・レスター、サードのノーラン・アレナド、ファーストのポール・ゴールドシュミットと一緒にプレーする。冗談でしょ? って感じだよ。

そして次の年にはあの偉大なレジェンド、ザ・マシーンことアルバート・プホルスと一緒にプレーする機会に恵まれ、彼の700本目のホームランを目の前で見ることができた。これは夢なのかな? 僕は今、夢を見ているのかな?

人々はいつも、僕にこう言うよ。「君は本当に野球を楽しんでいるようだね。いつもスマイルを浮かべているから。君は心から自分自身を楽しんでいるね」と。

それが僕なんだ! これが僕の夢であり、今も昔もずっとそうなんだ! 冗談はやめてよ

僕は今、自分の人生で最高の時を送っている。

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