ふたつの場所を代表することの意味
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もしも20年前にオアフ島のノースショアに訪れたことがあるならば、そこでビーチに座っている少女を見かけたことがあるかもしれません。
その少女はきっと3歳くらい。腕に浮き輪をつけて、頭にきつく締めたピンクのゴーグル。その子はとても不思議な行動を取っています。ちょうど波が打ち寄せてくるところに座り、わざと水に飲み込まれていたのです。そしてまるで魔法を使ったかのように、海の中に消えた場所から数メートル離れた場所からポンと飛び出てくるんです。大きな笑顔、そして頭の先から爪先まで砂だらけ。
その少女が、私。
私はとある“型”を学んでいる最中。“型”はちょっと言い過ぎかな。子供が子供らしい遊びをしていただけ。実はそんなことしてたのは覚えてもいないのだけど、お父さんがいつもこの話をするの。
「マヒナ、お前はいつも波打ち際に座っていて…」
「お父さん、もう何度も聞いたよ!」
記憶には残っていないかもしれないけれど、魂は覚えている。
私と海の繋がりは、そこで始まった。お姉ちゃんは私ほど海を愛してはいなかった。幼い子供にとって、水を怖がるのは普通のこと。でも私は、なんだろうな、自分の居場所だって感じたの。私が通っていた小学校は、パイプラインっていうノースショアの最も象徴的なサーフィンスポットの近くにあったの。毎日授業が始まる前に、私はカメハメハ・ハイウェイの向こう側に広がる海で、たくさんの人が朝のサーフィンをしているのを眺め、下校の時も自転車に乗りながら眺めていた。
サーフィンは、いつもそこにあるものだった。
ハワイで育つと、そしてノースショアで育つと、サーフィンはスポーツ以上のもの。
自分たちを表現するためのものなの。
そこで、今からハワイの歴史を少しでも上手く説明したいと思う。なるべく短くするね。でも本当に、次にここに旅行に来るときは、ぜひちょっとでも自分で勉強してみることをお勧めします。
西洋人が初めてハワイにやってきた1700年代、プロテスタントの宣教師たちが多くのサトウキビ畑を造りました。そこで働かせるための、東南アジア人、そしてハワイ先住民の奴隷を欲しがったの。宣教師たちや多くの西洋人は、先住民に本当に、本当に酷いことをやってきた。本当に心が痛むし、正直言うと考えるだけで物凄くムカつく。今も、この話をしているだけで胸が痛い。
そして支配者となった移民や宣教師たちが行なった数え切れないほどの残虐行為の中には、ハワイアン文化を奪おうとするものもありました。学校でのハワイ語使用禁止、フラダンスなどの伝統的行事の禁止。そしてもちろん、サーフィンも。
長い年月を経て、何十万人ものハワイ人が殺され、ハワイ共和国が成立したのち、サーフィンがワイキキに戻ってきました。
そして今、この土地の出身者、そしてハワイ人であることの意味をよく理解している人たちは、私たちがサーフボードに乗って競技に挑むことの意味も理解していると思う。
ここ出身の人にとっては、本当に大切。それだけのこと。本当に…特別なの。
この土地の出身者、そしてハワイ人であることの意味をよく理解している人たちは、私たちがサーフボードに乗って競技に挑むことの意味も理解していると思う。
- 前田マヒナ
波に飲み込まれるのを楽しんでいた少女だったころは、こういったことは何も知らなかった。わかっていたのは、自分は海が大好きだということだけ。そしてその海への愛は、すぐにサーフィンへの愛になっていった。4、5歳のころ、お父さんと一緒に二人乗りのサーフボードに乗っていたのだけど、正直そのときのことはあんまり覚えていない。でもこれだけは覚えている。
とっても楽しかったということ。
海に出て、すぐ後ろにはお父さん。太陽が照りつけ、波の音が響き渡る。最高だった。本当に。
お母さんとお父さん、ヒトミとヤスオはどちらも日本人。グリーンカードを取得して、仕事のために移住したのちに、出会ったの。お姉ちゃんと私はとても伝統的な日本の家庭で育ちました。両親が幼いころに経験してきた日本のしきたりの多くは、私とお姉ちゃんにも受け継がれている。自分が小さいころから、私はふたつのアイデンティティがあるんだなという感覚があった。家では自分は日本人だという感覚。でも学校の友達はみんな完全にアメリカ人。多くは白人で、普通のアメリカ人の子供が好むようなことをしていた。自ずと私もそうなる。両親はそれを気にせずにいてくれたの。自分が普通とはどこか違うということはわかっていた。
その感覚がどういうことなのかを初めて理解したのは、10歳くらいになって、サーフィンの競技に参加するようになった時。私たち家族にとって、とても大切にしている日本文化のひとつに、コミュニティ内の年長者を敬うというものがある。アメリカの文化にはないレベルの、敬いの気持ちがあるの。でもハワイ、特にノースショアではそれと同じものが存在する。小さいころから、血は繋がっていなくても「おばちゃん」とか「おじちゃん」と呼ぶ人がたくさんいた。私たちのコミュニティではそれが根付いていたの。そして私がここまで来られたのは、そのような人々、ノースショアのファミリーのおかげ。
私は23歳にして、オリンピック選手となった。
小さいころに、波に飲み込まれていたあの少女が、今ではオリンピック選手。
でも東京で競技に挑む私が背負うのは、アメリカの国旗ではなく、日本の国旗。なぜなのかを説明したい。
5年前、私はサーフィンをもう辞めたかった。とても辛い時期を送っていた。18歳くらいになると、家を出て自分のことをやりたいっていう気持ちでいっぱいになるのはわかるよね? それが私だった。でも日本では家を出るのは一般的ではない。それで、身動きが取れない感覚に襲われたの。サーフィンでもそうだった。自分が思っていたほど上達できていなかった。実は日本では、私が経験していたことを表す言葉がある。厄年。直訳すると「悪い年」という意味。女の子にとって、それは一般的に18歳だとされている。最悪だよ。お勧めはできないわ。私はそんな型にハマってしまった。自分の中にふたりの自我があって、それが喧嘩し合っているような感覚だった。
そして、私は6ヵ月ほどサーフィンから離れたの。家も出た。オアフには残ったけどね。大人と同じように、自分で家賃を払った。自分が求めていた答えを、自分で導き出したの。
だけど人生は面白い。その期間中に、私はトレーナーをやっているキッド・ペリグロに出会い、彼の助けもあって私は情熱を取り戻すことができた。彼のことは第二のお父さんだと思っている。サーフィンが2020年のオリンピック競技に決まったことが発表されたのもこのころだった。そのニュースを見て、「へえ、それは良かった。でも自分は関係ないか」と思ったのを覚えている。ハワイのスポンサーはもういなかったし、それほどのことに身を投じられるような状態じゃなかった。
東京で競技に挑む私が背負うのは、アメリカの国旗ではなく、日本の国旗。
- 前田マヒナ
それでもキッドとたくさん話すことで、彼は私が抱えていた多くの雑念を無くすことを助けてくれた。失敗や失望といった、潜在的な恐怖心を取り払ったの。彼のおかげで自分を見つめ直すことができた。特にこれを言われたからというわけではないけど、トレーニングを通じて、自分という存在、自分が何をできるのかを見直すきっかけをくれたの。
そこで気付いたのは、自分がなれると思っていたようなサーファーになるための努力を再開すべきだということ。私にはポテンシャルがあることはずっとわかっていた。ジュニア世界大会でタイトルを獲得したとき、サーフィン界もそう認識してくれた。ノースショアのおばちゃんやおじちゃんたちも。両親も。私がここにくるまでに、多くの人から支えられてきた。私はその人たちに恩返しをしたい。
そこで私は、自分が家を出たときに置き去りにしてきた自分の一部と、再び向き合うことにしたの。
私はノースショア出身。
そこが私のホーム。
これからもずっと、私のホームであり続ける。
私はハワイ人。
でも私は日本人でもある。
私はひとつの旗、ひとつの国、ひとつの言葉以上なの。
私は、私。
私にとって、自分がずっとなりたいと思っていた人間になるためのルートは、日本国旗の下でサーフィンをすることだった。だから数年前、日本を代表してオリンピックに出場する可能性を考えて、代表する国を変えた。日本を代表するということは、私にとって何よりも感情的でスピリチュアルな選択だった。自分のルーツである日本と繋がり、自分自身についてもっと学ぶこの機会を得たことで、新たな気持ちを抱くことができた。
ぬるま湯に浸かった状態から抜け出す必要があると思って、私はここ2シーズン、日本の茅ヶ崎でも生活をするようにしたの。結局パンデミックの影響で行き来することが難しくなって、ノースショアの自宅で過ごす時間が予定より長くなってしまったけど、日本のスポンサーを獲得して、日本のサーフィン界の一員になりたいと思ったの。
私はひとつの旗、ひとつの国、ひとつの言葉以上なの。私は、私。
- 前田マヒナ
私が育った家は2階建てで、両親は土地を訪れたサーファーによく1階を貸してあげたりしていた。その中には多くの日本人もいた。この国がサーフィンにどれだけ情熱を注いでいたのかは、昔から知っていた。でも実際に訪れて、自分の目でそれを確かめることは、本当に特別な経験だった。サーフィンは私にとって、昔からとてもパーソナルなものだった。ノースショアの人々が大切にしていること。もちろん自分たちだけのものだなんて思っていない。でも、それだけ自分にとって大切なものなの。日本で小さな子供たちが海に飛び込んでいるのをみると、ここは故郷からそんなに遠い場所じゃないんだなという感覚を持てた。
今年、日本代表選手に選ばれたとき、私はあの子供たちのことを思い出した。
出来る限り、あの子たちを代表して戦いたい。
出身地がふたつあるということは、自分の行動や立ち居振る舞いで、それらの出身地の精神を体現するということ。自分自身を誇りに思うこと。私は、大坂なおみ選手がテニスを通して成し遂げてきたこと、そして日本とアメリカ両方の伝統を体現していることから多くのインスピレーションを受けている。彼女は私のロールモデルであり、私も誰かにとってそんな存在になりたいと思っている。私が望むのはただそれだけ。
今週日本で何が起ころうと、私は自分が正しい選択をしたのだと胸を張って言える。なぜなら、私は自分の心に従ってここにいるのだから。もし大きな波に襲われて、一瞬海の中に消えてしまったとしても、すぐにまたポンと自分が飛び出てくることはわかっている。自分のまま。マヒナのまま。
私はマヒナ。ハワイ出身。日本出身。そして…ノースショア出身だから。