息子が教えてくれたゴール
ある日のこと。
6歳の長男・海杜(かいと)が何げなくこんな言葉を発した。
「障害者って何?」
「障害って何?」
その言葉に、目指すべきゴール地点の景色を私は見せられた気がした。
人種、国籍、ジェンダー、障害の有無。そういったカテゴリーに分けられない、壁のない世界。競技のため、各地へおもむく私と行動してきた彼の目には、壁のない世界が当たり前に映っている。
我が息子ながら、ナイスじゃない?
同じような価値観がたくさんの人に伝わって、ボーダーレスな社会になること。それが、東京パラリンピックで迎える選手としてのゴールの先にある、もう一つのゴール、“夢”だ。
「日本は10年、いや20年遅れているのでは」と感じてしまった
- 谷真海
私の中で一つの指標になっているのが、2012年ロンドン・パラリンピックでの経験。オリンピックが終わった時点から、同じくらいの熱量でパラリンピックを盛り上げる雰囲気が醸し出されていた。
メディアやスポンサーだけでなく、国を挙げて「Welcome to the Paralympic」をうたっていて、「パラリンピックも含めてひとつの大会なんだ」というメッセージが伝わってきた。
同じ頃、日本ではすでにオリンピックのメダリストたちを祝福するパレードが銀座で開催されていた。当時はまだパラリンピックの認知度はとても低かったし、私でさえ当事者になるまでパラリンピックの存在自体を知らなかったので、無理もないことなのかもしれない。
けれど、パラリンピックが置き忘れられているような感覚はあった。ロンドンで目の前で起きていることと比較すると、「日本は10年、いや20年遅れているのでは」と感じてしまった。
インスパイアされるって、こういうことなんだって実感した
- 谷真海
ロンドン大会は、始まってからも圧倒されることの連続だった。
「チケットは完売」。事前に聞いてはいたけれど半信半疑だった。しかし、陸上競技が行われた収容人数8万人のメインスタジアムは、本当に連日超満員だった。しかも、昼と夜で観客の入れ替えも行われていたというのに。
さらに、一人ひとりのお客さんの姿から感じられたのは、純粋にスポーツとして観戦を楽しんでいるということ。誰もが「障害のあるアスリートを応援してあげる」ではなく、パラアスリートたちが繰り広げるパフォーマンスに「Wow!!」と感嘆の声をあげていた。
私自身、自分の競技が終わった後に何度か客席に行って、その雰囲気を楽しんだ。車いすバスケットボール、車いすラグビー、車いすテニス、水泳……。いろいろな競技を観戦してみると、「そんなこともできちゃうの?」という驚きの連続。
「自分に限界なんてないんだなぁ」「もっと頑張ってみようかなぁ」と思えた。インスパイアされるって、こういうことなんだって実感した。
“心のバリアフリー”。それを実現してしまうのが、スポーツの持つ力なんだ
- 谷真海
イギリスはあらゆる面で日本より成熟した社会――。2011年から通った大学院で、パラアスリートを巡る各国の環境の差を勉強した経験があったからこそ、余計にそう感じたのかもしれない。
障害の有無だけじゃない。客席にいた人たちは、ジェンダーや人種といった壁もまったく気にしていないように見えた。スポーツを通して、あらゆる壁が取り払われた状態。言ってみれば、“心のバリアフリー”。それを実現してしまうのが、スポーツの持つ力なんだって感動した。
これを日本で実現できたらどんなに素晴らしいだろう。そう思って私も東京オリンピック・パラリンピックの招致活動に参加するようになり、2013年には東京大会の開催が決まった。
「日本社会が変わるチャンスだ」と思うと同時に、「やることはたくさんあるぞ」と気合いが入った。日本のパラスポーツに対する価値観を、一段階上げなくてはいけない。責任も強く感じた。
そもそも、この頃の日本の環境を振り返ると、オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省と、国の所管も分かれていた。当然、予算も別々。障害者スポーツは、スポーツというより、“福祉の延長”と見なされていた。
それらをスポーツ庁に統合したのが2015年。東京大会に向けて、パラアスリート専用の施設が新たにできたり、メディアでもパラアスリートにスポットライトが当たるようになったり、だんだんと変化してきた。
2016年のリオデジャネイロ大会のときは、銀座のパレードはパラリンピックが終わってから、オリパラのメダリストが一堂に会して行われた。正直、これだけでも隔世の感がある。オリンピックとパラリンピックの距離は確実に近づいてきているなと嬉しくなった。
東京パラリンピックをゴールにしちゃいけない。“心のバリアフリー”があちこちで花開くように、種まきする段階なんだ
- 谷真海
ただ、東京大会はあくまでも通過点。39歳の私は、パラスポーツの冬の時代を経験しているから、東京大会で盛り上がっている今の状態がいかに特別であるかも分かっている。支えてもらうこと、応援してもらうことは当たり前じゃない。きっと、国から出る予算だって、東京大会後は減っていくはずだ。
競技環境を維持していくためには、アスリート側から社会に入り込んでいく努力も必要だと思う。
やっぱり、4年に一度の大会を目指してきた選手にしか伝えられない世界観はあって、体づくりの工夫や海外選手との交流で得た知識など、一般の人々にとっても参考になる部分があるはず。そうしたものを武器に、自分を売り込んでいかないといけないと思っている。
私は、大学卒業後にサントリーに就職して、創業者である鳥井信治郎さんの口癖から来ている「やってみなはれ」という社是に後押ししてもらってきた。会社が大事にしているチャレンジ精神を、私がパラリンピックを目指す姿勢を通して社員だけでなく一般の人々に広く伝える。そういう関係性ができたから、「誇りだ」と言ってもらえるんだと自負している。
東京パラリンピックをゴールにしちゃいけない。たくさんの人に競技を見てもらうことで、将来的に“心のバリアフリー”があちこちで花開くように、種まきする段階なんだと思っている。
夢を追っているからこそ、子どもたちに伝えられるメッセージがあると信じていた
- 谷真海
もちろん、東京パラリンピックに選手として出場すること自体、私にとっては大きな“夢”だった。
過去のアテネ、北京、ロンドンの3大会は、走幅跳で出場してきたけれど、東京大会に向けてトライアスロンに競技変更。出産を経て、年齢を重ねた自分の状態を顧みたときに、少しでも出場の可能性を高めるための転向だった。
でも、トライアスロンも決して得意とは言えない。ランは短距離から長距離への移行に苦しんだし、バイクも課題。水泳も苦手だったけれど、それら全てに取り組んで、2017年は世界選手権を含めて出場した全9レースで優勝。東京大会では金メダルも取れると手応えを感じていた。
ところが、2018年になって、国際パラリンピック委員会(IPC)が、私が属していた運動機能障害PTS4クラスを東京大会では実施しないと決めてしまった。せっかく頑張ってきたのに急に道が閉ざされ、まさにどん底。「もうダメだ」って思った。
あきらめきれず、IPC会長や国際トライアスロン連合会長に何度も直訴した。「アスリートの出場の権利を奪うべきではない。障害の軽いクラスでも出場できれば」と訴え続けた。
そうした過程を経て、より障害が軽いPTS5クラスとの統合がなんとか決定。閉ざされた道をもう一度つなぐことができた。金メダルの夢は厳しくなったけれど、東京パラリンピックの舞台に立つことが、私にとっては重要だと思えた。
ほっと息をついたのもつかの間。2020年、今度は新型コロナウイルスの感染拡大によって、東京大会が1年延期に。息子に「トライアスロンはいつ終わるの?」と聞かれて、家庭を犠牲にしながらの挑戦をいつまで続けるのか、何度も心が揺らいだ。
それでもここまで選手として続けて来られたのは、家族を含めた周囲の支えがあったから。自分としても、過去形ではなく、自分自身が「東京パラリンピック」という夢を追っているからこそ、子どもたちに伝えられるメッセージがあると信じていた。
本当に山あり谷ありの道のりだったけれど、今回は日本選手団の旗手を務める役割もいただいた。現役選手でないと務められないものだし、旗手として注目していただくことで、また私の想いは多くの人に届きやすくなると思う。使命感を抱くと同時に、「本当にあきらめないで良かったな」と嬉しく思う。
これまで、国際遠征が伴う合宿や大会も、可能な限り息子と一緒に参加してきた。車いすの人や腕のない人を身近で見てきたためか、息子は障害を特別視することなく、「その人の個性」と捉えているように感じられる。人種やジェンダー、言葉の違いも、自然に受け入れている。
もともと私も「障害」という言葉があまり好きではなかったのだけれど、「障害って何?」と言えちゃう息子のナイスな感性を、これからも大事にしていきたいと思う。
そう、子どもたちって本当に柔軟なんだ。「右足は義足なんだよ」と話すと、初めはどこか心配そうな目を向けてくる子どもたちが大半だけれど、少し話をしたり、一緒に運動したりすると、すぐに「すごいね!」とポジティブな言葉を発することができる。これまでのさまざまなイベントを通して、何度も実感してきたことだ。
これこそスポーツの力だと思うし、だからこそ社会を変えるためにスポーツは欠かせない要素だと思っている。
パラリンピックの「パラ」は、もともとは「パラプレジア(下半身麻痺)」を意味していたものだったけれど、1988年ソウル大会のときに「パラレル(並行)」に認識が変わり、「オリンピックと並行するもの」と意味が変わった歴史がある。
意識が変われば社会が変わる。いつかきっと、“壁”はなくすことができる。
選手としてのゴールは東京パラリンピックで迎えるけれど、人生をかけたゴールはまだまだ先にある。
“心のバリアフリー”
理想論だと言われても、そんな世界の実現を目指して、走り続けていきたい。