神様、フットボールをありがとう
To read in English (Published Sep 6, 2024), please click here.
僕はいつもシティのチームメイトに、こう伝えるようにしている。自分が話すのはイングリッシュではなく、アメリカンだと。彼らは僕をいじるのが本当に好きでね。どんなことでも茶化すんだけど、大体いつも僕の着ている服をからかってくる。「イケてるよ」なんて言うんだけど、本当のところはどうだか。それから僕の喋り方も。でも僕について、人々が知らないことはたくさんある。事実、僕が英語を学んだのは、マンチェスターでも、ロンドンでもない。コネティカットの森のなかで身につけたんだ。つまり、僕が参考にしたのは、アメリカン・イングリッシュなんだ。
「わかってんよ、あんちゃん。ヘイヤ。調子はどんなよ、ブラザー?」(こんな感じの喋り方、わかるよね)
僕の家族は教育を本当に重視していたから、父さんはいつも僕にアメリカの高校へ1年間の交換留学をさせたがっていた。でも僕はフットボールの夢を抱いていたから、それは難しかった。だからその代わりに、14歳になったとき、コネティカットの森のなかでのサマーキャンプへ行ったんだ。“コネティカット”という名前の響きさえ、マドリード出身の少年にはクレイジーに聞こえた。でも到着すると、さながらハリウッド映画のなかに足を踏み入れたような感じだった。子供たちが大きな湖のほとりでキャンプを張り、木製のカヌーがあって、木登りをしたり、テントで寝たり、棒を使って火を起こしたりする、そんな映画をあなたも観たことがあるよね? まさにあんな感じだったんだ。マシュマロやビスケットを食べたり、キャンプファイヤを囲んだり、チョコレートを食べたり。
つまり、スモアのことだよ。最高においしかった。
携帯電話もWi-Fiもなく、僕はひとりで新しい国へ行き、友達を作ろうとしていた。「ハロー、僕はロドリゴ。マドリードから来たんだ」(すでにチームメイトは笑っているだろうね、彼らの笑い声が聞こえてくるよ)。そして僕はいつも、拙い英語でこう言っていた。「じゃあ、みんな、いつフットボールをするの?」
「そうな、ロドリゴ。あとでやろか。じきにピッグスキンを投げ合おうぜな」
「ピッグスキン?」と僕は考えた。
「なにを言ってんだ、ブラザー。NFLのボールのことやんか」
率直に言って、僕は結構楽しんだよ。
でも僕はこう言い続けていた。「僕はサッカーがしたいんだよ、みんな」
「ソウカー? オレたちはソウカーはやらねえのさ、メーン」
さらに辛いことに、僕は2010年ワールドカップが始まった頃に、そこに着いたんだ。しかもインターネットでチェックすることもできなかったから、かなりきつかった。でもメインキャビンのオフィスのなかに小さなパソコンがあったから、僕は文字通り毎日、キャンプカウンセラーに試合結果を教えてもらっていた。スペインが初戦でスイスに敗れたことを、覚えているひともいるだろう。でもそのときは、僕をからかっているんだと思っていた。
「スイス? 嘘でしょ? ちゃんとグーグルで調べてくれましたか?」
いずれにせよ、スペインはそこから立ち直り、決勝トーナメントで勝ち続けていた。ドイツとの準決勝──死ぬほど観たかったよ。でも僕はカヌートリップに漕ぎ出していたと思う。そしてメインカウンセラーに、「お願いです。どうかスコアを教えてくれませんか?」と頼み続けていた。
最終的にキャビンに戻ったら、誰かがこう言った。「スペインが決勝に進出したぞ」と。
あのときほど、自分の家が遠くて近く感じられたことはなかったな。僕の意味することをわかってもらえるといいんだけど。
決勝の日、僕はメインカウンセラーに彼のパソコンで試合を観戦させてほしいと頼みん込んだ。すると彼は、もちろんと言ってパソコンを持ち出した。スクリーンの大きさは10インチくらい。それくらい小さなラップトップがあったのを、覚えているかな? そうした類のもので、実に小さかった。でも僕はこう考えていた。素晴らしい。まったく問題ない。とにかく観戦しよう、と。
森のなかにいたから、どうやって試合の映像にたどり着いたのかは覚えていない。でもおそらく完全には合法ではないストリーミングを見つけて、まったく興味のなさそうなアメリカ人たちに囲まれて、僕は決勝を観戦したんだ。
そしてイニエスタがゴールを決めたとき、僕は文字通り大声で叫びだし、外に出て、湖の周りを駆け回った。
「バーーーーモーーーース!!! アーーーーーーーーー!!! ハハハハハハハハ!!! ビバ、エスパーニャ!」
アメリカ人たちは、そんな僕を狂ったやつだと思っただろうね。わけがわからなそうに、頭を振ったりしていたからね。
彼らは僕を見て、こんなことを言っていた。「おい、あのスペイン人の子は泣いているのか? ソウカーのために?」
彼らはそれが僕にとって、どんな意味を持つのかを理解できなかったんだ。彼らは僕をクレイジーなやつとみなした。まあ実際、僕はクレイジーかもしれないけどね……。
僕はこれまでの人生で、ふたつの世界を生きてきた。ひとつはフットボールで、もうひとつは“現実の世界”だ。
時々、仲間たちから「普通だね」とからかわれたりする。面白いよね。だって僕の奥さんや母さんに訊けば、僕は普通からかけ離れていると言うに決まっているから。フットボールに関していえば、僕は中毒者だ。おそらく自分が普通だと思われているのは、ソーシャルメディアや400ポンドもするスニーカーに興味がないからだろう。僕は子供の頃から、ただただフィーリングを求めていたんだ。
「フェラーリに乗れるようになるために、フットボーラーになりたい」なんて言ったことはない。そんなことのためではなく、ピッチ上の僕のヒーローたちの姿が生きている感覚を与えてくれたからだ。5歳のとき、近所に公共のプールや小さな公園があったことを覚えている。夏になると、フットボール、プール、フットボール、プールを繰り返す日々だった。家でランチを食べて、プールに戻り、また公園へ行くような。
10歳になると、試合でうまくいかなかったあとは、一日中、両親とも口をきけなくなった。自分自身に腹が立ちすぎてね。きっと母さんは僕を見ながら、こんなことを考えていたと思う。「一体、この子になにが起きたっていうのよ。ただのゲームじゃないの」と。
でも僕にとっては、ドラッグみたいなものなんだ。だから僕はかなり幼い頃に、両親とある契約を結んだ。実際に、僕らがそれを話したかどうかは定かじゃないんだけどね。それはシンプルに“相互理解”だった。もし僕がフットボールの夢を追うのなら、大学にも行かなければならない。だから17歳のとき、僕はマドリードからビジャレアルへ引っ越し、ハウメ1世大学に入学したんだ。そして1年目は、チームメイトたちとビジャレアル・アカデミーのレジデンスに住んでいた。ところが18歳になると、“大人になった”とみなされ、自分でアパートを見つけなければならなくなった。
母さんはこんなふうに考えていた。「大学の学生寮に移ればいいだけじゃないの?」
オーケー、確かにそうだ。
だから、僕はそうした。
それはイギリスとすごく似通ったものだと思う──大きな複合アパートメントのなかには、ランドリーやシャワー、カフェテリアがあり、あとはドア、ドア、そしてまたドア。両隣には隣人がいて。自分の小さな部屋には、木製のベッドと木製の机がある。テレビやプレイステーションは持っていなかった。ラップトップのパソコンだけだ。朝になると、ビジャレアルへトレーニングに行き、午後には授業を受け、そして夜には……。
そう、夜は面白かった。だって大学だからね。金曜日の夜になると、みんなクラブへ遊びに行くんだ。でもその前に、アメリカ人が言うところの“プリゲーム”、つまり外に出る前にも遊ぶんだ。それぞれの狭い部屋に20人くらいが集まって、ベッドや床、いたるところに座り、音楽をかけ、ビールを飲む。僕はひとり、周りから浮き上がった生徒で──彼らは僕が真剣にフットボールをしていることさえ知らなかった──、炭酸水を片手に現れ、みんながクラブに行く時間まで一緒に遊んだ。そしていなくなるんだ。
そのうち、誰かがこう言ってきた。「ロドリゴ、どうしてオレたちと一緒に出かけないんだよ。いいじゃないか、行こうぜ」
すると僕はこう返すほかなかった。「いや、僕はフットボールをプレーしているから。朝にはトレーニングがあるんだ」
「つーーーーーまんねーーーーーなーーーーー。お前はつまらないやつだ」
そんなふうに言われると、けっこう辛かったよ。
その頃、僕はまだセカンドチームでトレーニングしていたから、誰も僕のことなんか知らなかった。クルマさえ持っていなかった。その学生寮からビジャレアルのトレーニング・センターまでクルマで15分ほどだったが、毎日、タクシーを使うことはできなかった。だから自転車でトラムの駅まで行き──トラムに自転車と一緒に乗り──、最寄りの乗り場から練習場まで、また自転車に乗った。その後、運転免許を取り、父さんにこう言ったよ。「ねえ、僕はクルマを買うために3000ユーロを持っている。これで探してもらえないかな」
すると翌日に父さんが掛け直してきてくれて、こう言った。「良いのを見つけたよ。売ってくれるのは年配の女性だ。彼女は4000ユーロにしたいようだけど。ちなみに車内にはコンピューターがついている」
僕はこんな感じだった。「コンピューターだって? これに決めよう」
父さんがクルマを持ってきてくれた。それはオペルのコルサだった。車内に入ると、“コンピューター”のスクリーンは8センチほどとわかった。ラジオをつけることはできたけど、それ以外の機能はない。それでも僕は嬉しかった。それから毎日、クルマで練習へ行った。まるで成功したひとのようにね。チームメイトはそんな僕をからかってきたけど、そんなことはどうでもよかった。そのクルマが大好きだったからね!
翌年、僕はラ・リーガに初出場した。すると学校の友達はちょっとびっくりしていたと思う。彼らはこう言ったよ。テレビで試合を観ていたら、同じ学生寮に住んでいる男が出てきたんだ、と。経理のクラスで一緒の生徒が守備的なミッドフィールダーだった、と。
彼らはそれが本当に僕だということが、信じられないようだった。
「ちょっと待てよ、あの選手は本当に彼なのかい?」
「グーグルで調べてみようぜ、グーグルで」
「いや、違うロドリゴだろ。ロドリゴという名前は多いしな。あれは彼じゃない」
フットボールのユニフォームを着てテレビに映し出されると、いつもと違うふうに見えるものだよね。そしてたぶん、僕は真剣な表情をしていたんだと思う。
だから大学のクラスメイトの一部は、こう決めてかかった。「ノー、あれは彼じゃない」
でも僕がもっと試合に出始めると、彼らもいよいよそれが僕だと気づき、こんなことを言うようになった。「君はなんでこんなところにいるんだよ。昨夜、バルセロナ戦でプレーしていたよな!」
スペインには、Comunioというゲームがある。ファンタジーフットボールみたいなもので、選手を売り買いして、チームを運営するゲームだ。学生寮のみんながやっていて、土曜日の夜に僕が試合から帰ってくると、彼らはビールを片手にこんなことを言ってきた。「おい、どうしたんだよ! 今日の試合はパッとしなかったな。オレのComunioで君は3ポイントしか稼いでくれなかった!! なんてこった」
ははは、「ごめん! ごめんよ!」と僕。
あれは自分の人生で一番面白い日々だった。なぜかわからないけど、大学に戻ると僕の脳は自分のなかの異なる世界への“スウィッチが入る”、そんな感じだった。また最高に素敵なことに、僕はその学生寮で未来の奥さんと出会えた。彼女は医学を学んでいてね。そして彼女は、僕のフットボールのプレッシャーなんかにまったく興味がないんだ、ははは。僕がセルタ・デ・ビーゴと引き分けたとか、彼女にとってはどうでもいいことなんだ。
彼女のおかげで、僕は“地に足をつけ続ける”ことができている。
「ヘイ、落ち着いてよ。ねえ、冷静に。ただのフットボールじゃないの」
大学の先生たちにとっても、僕は“普通の生徒のひとり”だった。スペインでは、大学は大学だ。そこでは勉学に励まなければいけない。だから小さな部屋でラップトップと向き合っているとき、僕は完全に集中していた。文字通り、すべてを忘れて。ある日、試験かなにかの勉強をしているとき、僕は携帯電話をサイレントモードにしていた。いったん休憩しようと思って電話を見ると、20件くらいのテキストメッセージと、50件ほどのWhatsApps。電話も10回は、かかってきていた。僕は咄嗟に、やばい、誰か亡くなったのかな、と考えたいてた。一体、なにがあったっていうんだよ。
すると、チームメイトから電話があった。
「ロドリ、どこにいるんだよ?」
「どこって、ここだよ。大学にいるよ」
「監督が君を探している。というか、みんなが探しているんだよ」
「なにがどうしたの?」
「オレたちはこれからバレンシアと対戦するんだ。みんなバスに乗ってる」
冗談を言って、僕をからかっているんだと思った。
「いやいや、試合はあし…た………」と僕。
やっちまった。まずいな。学生時代にテストの日を忘れてしまって悪夢に襲われたりしたことは、誰にでもあることだと思う。まさにこのとき、僕はそれを実際に経験した。しかも学校の試験じゃなく、ラ・リーガの一戦のスケジュールを忘れていたんだ。
「わかった、バスには出てもらってください。ホテルで合流するから」と僕。
そこから超速で服を着てクルマに飛び乗り、ジェームス・ボンドみたいにオペルで通りをかっ飛ばした。バレンシアのホテルまで1時間ほど。着いた頃には、チームミーティングの最中だった。僕は「宿題を犬に食べられちゃって」とか言い出しそうな風情で入っていくほかなかった。
ははははは。でももちろん、そんな言い訳はフットボールでも通用しない。
その日の一戦では完全に打ちのめされたけど、それは僕にふさわしいものだった。この経験はすごく勉強になった。なぜなら、僕はふたつの世界をもっとうまくコントロールしなければいけないと悟ったから。
ここまでの人生の旅路で、僕は失敗から多くを学んできたんだ。その度に新しいことを身につけた。新たなパズルのピースを。ビジャレアルでは、プロフェッショナルになることの意味を学んだ。フットボーラーについてだけでなく、プロフェッショナルとはなにを意味するのかを。
アトレティコに1シーズンだけ戻ったとき、僕はそこで競い合うことの本当の意味を知った。ビジャレアルにいた頃から足元でのボール捌きに自信を持っていたけど、まだ少しヤワなところがあった。でもディエゴ・シメオネ監督のもとで、僕は悪いやつになるという意味を学んだ。ピッチ上で相手にとって嫌なやつになることや、本当のタックルとはどんなものかを。どうしたら相手チームを90分間、惨めな気持ちにさせることができるか。それも重要なことなんだ。
翌年の夏に、シティへ移籍するチャンスを得た。それは僕にとって夢だった。契約を結ぶ前にセルヒオ・ブスケツに相談したら、彼はこう言ったよ。「ペップ? 彼は君をより良い選手にするだろう。ただ彼は、君にいつまでもずっと強く要求してくるに違いない。それが終わることはないんだ」
セルヒオはペップのチームで僕と同じ役割を担い、多くの偉業を成し遂げてきたから、彼の言葉は信じるに値すると思った。実際、セルヒオは完全に正しかったよ。僕が思うに、ペップのユニークなところは、常に一歩先にいることだと思う。他の誰かが進歩するよりも前に、彼は進化を遂げている。ペップは前のシーズンと同じようなやり方には、絶対に満足しない。なぜなら、ライバルは常に前のシーズンを分析しているからだ。同じやり方で、プレミアリーグを4連覇することなんてできないよ。チームを作り変えなければ、そこで終わりだ。
ペップと会話をするときは、常に両手を動かさなければならない。テーブルやボードのようなものを用意して、チェスのようにコーヒーカップを動かす必要がある。
「彼がここに行けば、彼はここに行き、そこでバン! と君がここへ動く。スペースに入り込むんだ。バンと」
僕にとって、彼はメンタルのパズルの最後のピースを与えてくれたひとだ。また試合の“見方”を変えてくれた。スペースへ動くときも止まるときも、“フィーリング”が大切だと。プレスに行くときも、足を緩めるときも同様に。僕にとって、彼の信頼はものすごく重要なんだ。だってあなたも覚えているかもしれないけど、2019年に僕がシティに入団したとき、フェルナンジーニョやアグエロ、ダビド・シルバ、ケビン・デ・ブライネたちと一緒に更衣室に入っていったんだ。彼らはレジェンドだ。僕は12歳のとき、アトレティコでプレーしていたアグエロを見るために、トレーニンググラウンドへ足を運んでいた。彼は僕のヒーローだ。なのにそのときは、ロッカールームで彼の隣に座っていたんだ。信じられなかったよ。
アグエロとオタメンディは、いつも特に僕をからかっていたね──服装ではなく、試合後にバスで僕が必ず奥さんとフェイスタイムで話すことに。僕がフットボーラーで、彼女は医者だから、僕らは長年にわたって離れ離れでいることに慣れていた。遠距離のパートナーとすることといえば、フェイスタイムだよね。毎試合後、勝っても負けても、僕は彼女にフェイスタイムをかけていた。勝利の後は、問題ないさ。なぜならチームメイトは大声で騒いだり、勝利を祝ったりして、僕らの会話なんて気にかけないから。でも敗戦の後も、僕自身は普段と変わらない。フィルターなんてないし、奥さんと話せば、頭のなかは大学時代と同じになる。あの頃のロドリゴに戻るんだ。だから静まり返ったバスのなかで、誰もが俯いて落胆しているときに、僕はいつもと同じ調子の大声で、こんなことを言ったりする。「そうなんだ、率直に言って、今日の僕らはからっきしダメだった。うん、そう、引き分けだった。その通り、イラついているよ。ところで、今日はなにをしていたの?」
当初、アグエロとオタメンディは僕を呼び、こう言った。「おい、バスでそんなふうに話しちゃダメだよ。ペップが聞いているぞ! ほかのみんなもな!」
でも僕はその後も試合のあとには必ず、彼女にフェイスタイムをかけた。いつもと同じように、ありのままに。
「うん、今日はまずまずだったよ。自分のプレーはひどかったけど、試合には勝ったから。君はネットフリックスを観てるの? 食事はなににしたの?」
はははは。僕らは10代のカップルみたいだった。周りのみんなは相当イラついていたよ。なかには僕の携帯を取ろうとするひともいて、こんな感じだった。「奥さん、彼にまた掛け直させるから! ロドリ、電話を切れよ! もう行かなくちゃ! バイバイ!」
彼らは僕を懲らしめようとしたみたいだったけど、かまわないよ。僕はピッチを離れると、常に自分の足が地についているかどうかを確認したいんだ。時々、人々は僕のことを勘違いしていると思う。誰もが知っているように、フットボーラーにはマーケティングやメディアがついてまわり、キャラクターを作られてしまうようなところがある。僕の場合は、“オタク”だ。ある写真撮影で、撮影スタッフからこう言われたことを覚えている。「いいかな、君をクールに見せるために、良い考えがあるんだ。腕に本を抱えてほしいんだ。図書館へ行くような感じで」
その写真が世に出ると、学生時代の友達からテキストメッセージが送られてきた。「おい! マジかよ? あれは一体、なんの真似だ? 君は読書なんか好きじゃないのに! 本当のオタクじゃないだろ!」
ソーシャルメディアで見たものを、常に信じちゃダメだよ! 現実はいつももう少し複雑なものだから。
僕らはここ2、3年、シティでとても恵まれた日々を過ごせたけど、それは本当の人生ではない。良いときは、ただ楽しんで、学ぶことはないからね。悪いときや、本当に苦しんでいるときこそ、人間は成長できるんだ。2021年のチェルシーとのチャンピオンズリーグ決勝の後、僕は家族が待つところへ行き、両親や兄妹たちの顔を見ると、なにも喋れなくなった。10歳の頃、キッチンのテーブルにいた自分に戻ったみたいに。僕はただただ、こう思った。この痛みは、2度と感じたくない。もっとハードワークしなければならない。より良い選手になるための術を見つける必要がある、と。
今、僕らはチャンピオンになって、世界の頂点に立っているから、誰からも2021年の話については聞かれない。でもあの敗れた決勝こそ、僕の人生でもっとも重要な瞬間だったと思う。成功の裏には、苦労や経験が潜んでいるものなんだ。
2023年のチャンピオンズリーグ決勝で得点したときでさえ、それは“計算”されたものではなかった。あれこそ、フィーリングによるものだ。公園でプレーしていた頃から20年間、フットボールをしてきたからこそ、感じることができたんだ。ベルナルドがあのクロスを入れる直前、僕はプレーから遠く離れた位置にいた。リプレーの映像を見れば、僕の姿を画面で確認することはできない。自分のところへボールが来る可能性は、まるでないはずだった。その場に止まっておくべきか。いや、ボックスに一歩近づこう。理由は自分にもわからない。実際、なにも考えていなかったから。ベルナルドがクロスを入れたとき、10回のうち9回──あるいは100回のうち99回──は、ボールは僕のところへ来なかっただろう。
でもこんな声が聞こえたんだ。「そのうちの1回がこれだ」と。
だから僕は一歩前に進んだ。ボールはディフレクトしていた。もし僕が一歩前に出ていなかったら、間に合わなかったはずだ。
ボールがこちらへ弾んでくるところが見えた。
その瞬間の僕の心の動きをすべて話そう。
来たぞ。どうする?
力一杯蹴り込む──ズバンと。
いや、でも待てよ。これは試合で唯一のチャンスになるだろう。
とにかく枠に飛ばさないと。
公園でプレーしていた頃を思い出せ。
ネットにパスを送るんだ。
来たぞ。ゴールにパスしろ。
あの瞬間、まさにそんな感じだった。ボールがゴールに入ると、僕は駆け出して、ファンの前でひざでスライディングした。そして直後に思ったのは、あと20分、このとんでもない20分だと。ちきしょう。かなり長いぜ。
これこそ、6番の選手のマインドセットだ。
僕らは20分間を耐え抜き、試合終了の笛が鳴った。あれこそ、僕が人生をかけて探し続けてきたフィーリングだ。嬉しかったのは、ゴールを決めたことだけではない。チーム全員で90分間辛抱し、勝利できたこと。入団初日から僕をサポートしてくれたファンのために、3冠を成し遂げられたこと。シティのマフラーを巻いた子供たちの笑顔を見られたこと。自分の家族と抱き合いながら、「やってやったぞ!」と叫んだこと。
これはドラッグなんだ。だからこそ、フットボールをプレーするんだ。
先のEUROでも同じだった。決勝の後半は外から観ていたので、僕にはどこか詩的なものに感じられた。自分でコントロールできなかったわけだから。大会が始まる前、自分はリーダーになろうと決めた。チームで一番年上ではないけど、新しい世代の若者たち(ものすごく若いんだ! 怖くなるくらいにね!)がいるし、大事な瞬間に感じるプレッシャーから、彼らを助けてあげることができると思えたんだ。今年の夏にラミンとニコが成し遂げたことを思うと、僕は本当に幸せな気分になる。母国の人々がみんな観ているなか、あれほど大事な瞬間に先陣を切るなんて──しかも17歳と22歳で──、到底信じられないよ。彼らの年頃で僕がなにをしていたかを知れば、二人はぶっ飛んでしまうだろうね。
EURO2024決勝の後半を外から眺めているときに感じたセンセーションは、クルマを時速200キロで飛ばしているようなものだった。ハンドルを握ってクルマをコントロールしている方は、平然としている。でも助手席に座っていると、ジェットコースターに乗っているように感じるよね。
85分にうちの決勝点が入ったとき、僕はゴールを決めたミケル・オヤルサバルのもとへダッシュしたと思う。前半に出場していたときよりも速く。
自国のためにタイトルを獲得すると、また違った感情が生まれるものだ。僕は自分のルーツを思い出したよ。プールで泳いで、公園で遊び、またプールに戻ったあの頃を。トラムに自転車を積んで、トレーニングへ通ったあの日々を。スペインがワールドカップで初優勝し、コネティカットの森のなかを嬉し泣きしながら走り回ったあのときを。
ひとつの都市だけなく、国全体に喜びを与えたことに気づいた。実に多くの異なる人々を。実に多くの異なる世代を。まったく新しい世代にとっては、この喜びは初めてものだった。フランス戦でラミンがゴールを決めた夜、一体どれほどの子供たちが狂ったように走り回っただろうか。イングランド戦でミケルがネットを揺らしたときは? 数千人、いや数百万人だろう。
「ハハハハハハハハハ!!!! ビバ、エスパーニャ!」
そのフィーリングは僕も知っている。ピュアな喜びだ。
書籍や経済学や会計学は、リスペクトしているよ……でもこんなふうにハートを動かすのは、たったひとつしかない。フットボールにしか、できないことだ。
神様、ありがとう。両親が僕ら兄妹に勉強させてくれたことに。これも確かだ。
神様、ありがとう。フットボールによって、夢を見させてくれることに。