でも まずは攻めろ

To Read in English (Published Sep 7, 2017), please click here.

 さて、どこから話し始めようか? 爺ちゃんがいかに僕の人生を変えてくれたかを話したいし、でもロナウドのことを話したいとも思う。ロマーリオが飛行機から出てきたときのことや、オレンジ色のフォルクスワーゲンのことについても話したいんだ。

 話すことはたくさんあるけど、まず“臭い”についてから始めようか。

 それは幼いころの最初の記憶のひとつで、6歳のころの夏休みのことだった。僕は毎朝7時半に起き、サッカーボールを持ってボタフォゴ・ビーチに行っていた。

 場所はリオだ。最高のサッカー選手は、みんなリオの出身さ。そうだろう?

 ビーチ沿いには公園があって、フットサルのコートや滑り台があった。そこにはいつも同じ年配の男がいて、車を駐車しようとしている人々に向かって「1ドルだよ! 1ドル! 1ドル!」と叫んでいた。

 彼は1ドルで公園に停める車を「守って」くれるのだ。彼の声は今でも覚えている。でもあの地面の臭いもよく覚えている。 壊れた排水管がコートの片方の地面に排水をまき散らし、その結果泥だらけになっていた。毎朝、公園に近づくと、その臭いが充満していたんだ。

 そのコートはボタフォゴFRの熱狂的なファンの縄張りだった。行ってみたら、すでに彼らがコートを占領するのはよくあることだったので、彼らが占領している日はコートを使えず、端っこで僕はひとりボールを蹴るしかなかった。コートが空いている日もあった。だけど、コートが使えても使えなくても関係なかった。マルセロ少年は毎日そこに通い詰めていた。

 その場所の臭いと、ボールの感触はいまでもハッキリと覚えている。僕にとって何が大切なのかわかっていた。いつだって足元にボールがあれば、イライラすることはない。誰かと一緒にプレーする必要はない。ボールさえあればじゅうぶんなんだ。

BRUNO DOMINGOS/AFP/Getty Images

 その夏、94年ワールドカップがアメリカで開催されていた。ブラジルではワールドカップが近づくとみんなでそこらじゅうに絵を描いて盛り上がるんだ。道路、フェンス、壁、そして顔まで、目につくものには緑と青、黄と国旗の色があふれている。ブラジルの子供たちにとってそれは特別な記憶のはずだ。あるとき、僕はロナウドの話を読んだことがあるけど、彼もまた82年のワールドカップ直前に路上に出て、壁にジーコの絵を描くのを手伝ったと話していた。

 ねぇ、ロナウド。どう感じる?

 もしこれを読んでいたらだけど、僕は6歳のとき、友人と一緒にあなたの顔を道路に描いた。あなたは僕らのヒーローなんだ。その記憶はいまでも鮮明に残っているんだ。

 人の記憶とはおかしなもので、ブラジルが勝った決勝戦のことはぼんやりとしか覚えていないんだ。それなのに地元紙の一面に載った1枚の写真は、はっきり覚えている。代表チームがブラジルに飛行機で帰ってきたときのものだ。そのときロマーリオがコックピットの窓から体を乗り出し、ブラジル国旗を振っていた。それはまるで、僕らのために世界中を征服してきたかのようだった。

 その写真を見て僕は誇らしくて仕方なかった。そして願った。「神さま、いつの日か僕も同じことをしてみたいんだ」ってね。

 もちろんそれは、さまざまな理由で大それた夢だった。1つ目の理由は、ブラジルには2億人もの人口がいて、全員がサッカー選手になりたいと思っている。年寄りも例外じゃない。2つ目の理由は、僕はそのころ地元のフットサルチームでプレーはしていたけど、まだサッカーは始めてすらいなかった。僕の家族にとって、サッカーのクラブに通うなんて、とても現実離れしたことだった。アメリカやヨーロッパの人にはわからないかもしれないけれど、ブラジルでは、特に僕が子どもだったころはガソリンの値段がとても高くてクラブに通えなかったんだ。

 ありがたいことに、爺ちゃんは僕のためならあらゆることを犠牲にしてもいいと考えてくれていた。僕の人生を語るうえで、彼は最も重要な存在だ。彼を説明すると――、個性的だった。いつも格好いいサングラスをかけていて、よく言う口癖みたいなものがあった。友人がいると、よくその言葉を使っていた。

 彼が言っていたのは――

「俺を見ろ。ポケットには1ドルもない。だけど俺はこの上なく超幸せだ!」。

 爺ちゃんは古いフォルクスワーゲンのヴァリアントに僕を乗せてフットサルに連れて行ってくれた。1969年くらいに製造されたものだったと思う。ところが8歳か9歳になってチームの移動が頻繁になってくると、ガソリン代や昼食代、その他の負担が響くようになってきた。そのとき爺ちゃんはある決断を下す。それが僕の人生を変えることになった。

 車を売って、その金でバスのチケットを買ったのだ。この話を聞くと、爺ちゃんは自分のことを犠牲者のように感じて「俺は可哀そうだよな」と言っていたのではないかと思う人がいるだろう。

 でも、全然違うんだ。

「うちの孫はリオで最高の選手だ! ブラジルで最高の選手だ! すごいんだ! 誰にも止められない!」。そう言っていたんだ。

 爺ちゃんの目から見ると、僕はまったくミスをしない選手だった。笑っちゃうんだけどね。とにかく、僕の試合観戦から帰宅すると彼は父にこう言った。「お前もマルセロのプレーを見に来い。今日、どうだったと思う? まったく魔法のようだった。信じられないプレーぶりだった!」

 けれど父には仕事があったから、僕の試合を見に来ることはほとんどなかった。父はおそらく、爺ちゃんは入れ込み過ぎだと思っていたのだろう。一番面白かったのは僕のプレーが全くだめで、試合にも負けたときだった。爺ちゃんは肩をすくめて「まぁ、どうってことはない。なんとかなるさ」と言うのだった。

 こんな爺ちゃんのおかげで、9歳になったときには自分がロナウドになったような気分になっていた。家に帰るときは大真面目に「僕はサッカー選手だ」と胸を張っていた。

俺を見ろ。ポケットには1ドルもない。だけど俺はこの上なく超幸せだ!

 12歳のある日、試合後に爺ちゃんがオレンジ色のフォルクスワーゲン・ビートルを運転して迎えに来てくれた。

 彼は「さあ乗れ。家に帰るぞ」と言った。

 僕は「でも、どうしたの? この車、どうしたの?」って感じだった。

 彼はこう言った。「ジョゴ・ド・ビチョが当たったんだ」ってね。

 リオでは、これは動物くじと言われていた。必ずしも合法ではなかったのだが……、これは庶民の賭け事だった。ダチョウや雄鶏のような動物に数字を振り分けたくじなんだ。毎日新しい賭け事がある。いくら当たったのか知らないけれど、爺ちゃんはそのお金でビートルを買ったのだった。

 信じられないような話だろ? 僕と爺ちゃんはこの車でいろんな場所に行ったんだ。15歳になると、僕はフルミネンセのユース・チームにスカウトされ、本格的にサッカーを始めた。しかし、1つ問題があった。それは、トレーニングキャンプの場所がシェレーンだということだった。自宅から2時間ほどかかるのだ。毎日往復するガソリン代をまかなうのは不可能だった。そこで合宿所に寝泊まりすることにした。家族から離れてシェレーンで暮らすようになったが、爺ちゃんは土曜日の夜に迎えに来てくれた。日曜日はリオの実家で過ごし、それから爺ちゃんの車に乗ってまたシェレーンに戻った。

  もうわかるよね。爺ちゃんは動物くじを当てたけど、それは決して大金ではなかった。だから1970年代製の古いビートルだったんだ。ハンドルを大きく切るたびに、ラジオのチューニングが変わるほどだった。

 リオとシェレーンを何度も往復する生活に、僕は疲れ果ててしまったときがあった。サッカーの奴隷にでもなったような気がしたんだ。地元の友人はビーチに行ったりして楽しんでいるのに、僕がしていたのは練習だけだった。

 ある日、爺ちゃんが迎えに来てくれたときに僕は言った。「疲れたよ。サッカーは諦めて、家に帰る」とね。

 すると彼は「いや、いや、だめだ。まだ辞めちゃだめだ。ここまでふたりでやってきたじゃないか?」と言った。

 僕はこう言った。「いつもベンチなんだ。大切な時間を無駄にしている。もうじゅうぶんだよ」とね。 

 すると、爺ちゃんが泣き出した。

 そしてこう言った。「いいかマルセロ、落ち着いて聞け。いま辞めちゃだめだ。爺ちゃんはな、いつの日かマラカナンスタジアムでプレーするお前の姿が見たいんだ」

 胸に突き刺さった。「わかった。もう1週間だけやってみるよ」と僕は言っていた。

 結局、僕は諦めることを諦めた。

 それから2年後、僕はフルミネンセのファーストチームの一員としてマラカナンのピッチに立った。スタンドには爺ちゃんがいた。彼にはわかっていたんだ。僕がボールを蹴り始めたときから、爺ちゃんは僕の才能に賭けてくれていた。この日が来るのを彼は知っていたんだ。

 僕が18歳になると、ヨーロッパのチームがいくつか興味を示すようになった。耳に入ってきたのはCSKAモスクワとセビージャだった。そのころ、セビージャは強かった。それにブラジル選手がたくさんいたので「いいかもしれないな」と僕は思った。

 そんなある日、ある代理人が電話をかけてきてこう言った。「レアル・マドリーに行きたいかい?」と。

 確かそんな感じの言い方だったと思う。

「当たり前じゃないですか!」と僕は答えた。

 でも僕は、突然電話をかけてきたこの代理人と名乗る男が誰なのかを知らなかった。

 彼は「それではレアル・マドリーに行こう。メモを取っておいてほしい」と言った。

 数週間後、ポルトアレグレで試合があった。そのときにレアル・マドリーの関係者という人物が来た。ホテルのロビーで会ったその紳士的な男は、丁寧な自己紹介から始めた。ただ彼はマドリーのバッジを着けていなかったし、名刺もくれなかった。

 その後、彼は「きみにはガールフレンドはいるのかい?」などと質問をしてきた。

 「あー、はい」と僕は答えた。

 「誰と住んでいるの?」と彼は続けた。

 「えっと、祖母ですかね?」と僕は適当に答えた。

 相変わらず彼は名刺もくれないし、契約書の類も出してこない。僕は「これ、本当なのかな? セビージャではなくシベリアかどこかへ連れて行かれてしまうんじゃないか?」とさえ思った。

 2日後、僕は電話を受けた。マドリーの関係者が、マドリードで僕のメディカル・チェックをしたいとのことだった。

 それでもなお「これは ホントのことなのかな?」という気持ちだった。

 当時の僕について、少し話そう。16歳になるまで僕はチャンピオンズ・リーグの存在を知らなかった。はっきり覚えているのだが、シェレーンにいたとき、何人かのチームメイトがテレビを見ていた。ポルトとモナコの試合だった。でもその試合は何か違う感じだった。ナイトゲームだったが、とても明るく照らされ、ファンで埋め尽くされていた。ピッチの芝生は美しく、荒れたところはまったくなかった……驚くべきことだった。ブラジルのスタジアムは、少なくともそのころ照明は薄暗かったし、芝生は綺麗な緑色じゃなかった。

 この試合はまるで僕の知らない星から中継されているかのようだった。

 僕は「これはどこのリーグなの?」と聞いた。

 友人たちは「チャンピオンズ・リーグだよ」と答えた。

 「チャンピオンズ、何?」と僕。

 彼は「だからチャンピオンズ・リーグの決勝だよ」と言った。

 僕には彼の言っていることがわからなかった。ブラジルでは、チャンピオンズ・リーグは有料チャンネルでしか見ることができなかった。僕のような多くの庶民には縁のないものだった。

 話を戻そう。僕はマドリード行きの航空機に乗ることになったんだ。

 忘れないでほしいのは、当時の僕は18歳になったばかりだったということだ。ただ話をしにいくものだと思い込んでいた。到着してクラブの関係者に会うと、テーブルにはレアル・マドリーの紋章の入った契約書が置いてあった。僕は速攻でサインしたよ!

 それからスーツ姿の関係者が僕をそのままピッチまで連れて行ってくれた。その日のうちに僕はメディアにお披露目された。僕には何が何だかわからなかった。ブラジルにいる家族は、 ニュースを見るまで僕のレアル・マドリー入りを現実のことだと信じられなかったと言っていたよ。

 ブラジル有力メディア『グローボ・エスポルテ』がこう報じたのだ。

“18歳のマルセロがレアル・マドリーで入団発表をした”

 目の前の出来事がまるで夢のようだと感じたわけは、ロベルト・カルロスが僕の憧れだったからだ。僕にとって、彼は神だった。ロベルトと同じチームに入り、しかも同じポジションになる。僕には信じられないことだった。

 ロッカールームには……ロビーニョがいる、シシーニョがいる、ジュリオ・バチスタがいる、エメルソンがいる、ロナウドがいる、そしてロベルト・カルロスがいる。もちろんカシージャス、ラウル、ベッカム、カンナヴァーロもいる。

 マルセロ少年はこう感じながら足を踏み入れた。「なんてこった、テレビゲームでしか見たことのない選手たちが目の前にいる!」ってね。

 彼らにとっては、僕なんてとるに足らない存在だったはずだ。だがここに、マドリーがマドリーであり、特別なクラブである理由がある。初日にロベルト・カルロスが近づいてきて、こう言ってくれた。「これが私の電話番号だ。何か困ったことがあったら、何でもいい、電話をかけておいで」。

 マドリードでの最初のクリスマスに、彼は僕と妻を自宅に招待してくれた。この選手は僕の憧れの存在だ。そして同じレフトバックのポジション争いをしている。若手にここまでしてくれる人はそれほどいないだろう。だがこれがロベルト・カルロスなのだ。彼は自信を持っていた。それが本物の証だ。

 彼からはピッチ上でも刺激を受けた。ロベルト・カルロスは、左サイドの攻守において無心臓に上下動を繰り返す、まさに怪物。僕のプレースタイルが好きな人も嫌いな人も、わかるだろう? 僕はとにかく攻撃のアタックが好きなんだ。アタックではないよ。アタ――――ックだ。わかるかな?

 ディフェンスはどうするかって? 背後に穴が開いてディフェンスのバランスが崩れたら、チームでカバーすればいいんだ。とにかく、まずは攻撃のアタックだ。

 チームメートとの理解があってこそ、こうしたプレーができる。ファビオ・カンナヴァーロは左のセンターバックでプレーしていて「マルセロ、好きなだけ上がれ。ディフェンスのことは気にするな。なんとかするから。安心しろ。俺はあのカンナバーロだぞ」と言ってくれたものだ。

 そして今は、カゼミーロが同様のことを言ってくれる。「行け、マルセロ。そのあとのことは、ディフェンス陣でカバーするから」と。

 なんていい奴なんだ、カゼミーロ。本当に頼りになるよ。君と一緒なら、僕は45歳までプレーできるかもしれない。

 マドリーで最初のころは、カンナヴァーロが僕をすごくリラックスさせてくれた。彼との取り決めは、攻め上がった後、ディフェンスにダッシュで戻って来られるならば、好きなだけ上がってもいいということだった。だが、もし僕の帰りが遅れたら? そうなったら、本気で怒られる。ブラジルには「ペガーヴァ・ノ・ペ」という表現がある。「口うるさいのには、それなりの理由がある」という意味だ。

 カンナヴァーロが僕に口うるさく言ったのには理由があった。その点で、僕は彼が大好きだ。

Bernat Armangue/AP

 それでも、マドリーで求められる基準がどれほど高いかすぐにわかるだろう。マドリーでの最初のシーズンが終わったときディレクターのオフィスに呼ばれた。僕はまだ若く、そしてクレイジーだった。ちょっとした話でもあるのだろうと、野球帽をかぶって彼のオフィスに入った。

 クラブが僕のローン移籍を望んでいると、告げられた。

 マドリーが僕に経験を積ませたかったことは、わかっていた。しかし考えたんだ。ここはレアル・マドリーだ。いったん出てしまったら、二度と呼び戻してくれないかもしれない。

 彼は書類にサインさせようとした。

 僕の質問はただひとつ、「ここにサインをしなかったら、僕はここに残れるんですよね?」だった。

「まぁ、そうなるね。サインしなければ、ここにいられる。もし監督が君をチームに残したければ、そうなるだろう。だが私は君が経験を積む必要があると思うがね」と彼は言った。

 殺し屋でも連れて来て、脅迫して強引にでもサインをさせようとするのではないかとさえ感じたよ。

 でも僕は「経験を積むよ、僕に任せてほしい」と答えたんだ。

 僕はディレクターにお礼を言って、部屋を出た。

 その夏、ロベルト・カルロスがチームを去って、僕の出場機会が増えた。そこからマルセロ少年は飛躍することになったんだ。

 休暇でブラジルに帰るたび、僕は爺ちゃんのもとを訪ねた。彼の家のキャビネットはどんどん物があふれていった。

 そのキャビネットについて説明させてもらおう。

 僕が6歳のころ、爺ちゃんは僕のサッカー人生の博物館を作った。それは大きな木製のキャビネットだった。そこに僕のチーム写真やトロフィーなどを飾るようになった。僕がゴールすると必ず、記録帳に書き記していた。僕が学校でサッカーを始めて以来、文字通り毎試合だった。地元紙に僕の記事が載るようになると、彼はその部分をはさみで切り取って、きれいにスクラップしていった。

 ある夏、レアル・マドリーから帰ってみると、爺ちゃんはまだそれを続けていることを知ったんだ。あらゆる記事を切り取り、スクラップしていた。僕らのチームはラ・リーガで勝ち続けていて、巷にはたくさんの記事があふれていたんだよ! それでも爺ちゃんは、あらゆる新聞を集めて、そしてひとつとして見落とすことはなかったんだ。

Power Sport Images/Getty Images

 僕には以前から、このキャビネットにあと2つ加えたいと思っているものがあった。1つは僕がチャンピオンズ・リーグのトロフィーを抱えている写真。もう1つはワールドカップで優勝して、ロマーリオのように飛行機のコックピットの窓からブラジル国旗を振る写真だ。

 2014年のチャンピオンズ・リーグでアトレチコとの決勝戦に進出したとき、爺ちゃんは体調を崩していた。決勝戦を迎えるまで、僕は4試合連続で先発出場していた。決勝戦も準備は万全だった。ところが残念なことに、アトレチコとの決勝戦で監督は僕の代わりに違う選手を起用した。

 何て言えばいいのかな? 最初はとても悲しかったし、少し憤ってもいた。しかし心の中では、この夜に何か大きなことが僕を待っているような予感がしていた。僕はベンチに座り、じっと待ち続けた。0-1とリードされていても待っていた。試合時間が90分になっても、まだ待っていた。後のない93分、セルヒオ・ラモスがまたも値千金のヘディング・シュートを決めてチームを救った。彼の髪型みたいに、いつもチームの窮地の場面でゴールをバシッとキメるこの男はいったい何者なんだろう?

 延長に入って監督が僕とイスコを呼んだ。僕は大きな憤りの気持ちを胸にピッチへ飛び出した。でもそれは、いい形の憤りだった。圧倒的な力を見せつけてやりたかった。ピッチですべてを出し尽くしたいと思っていた。

 延長で僕のゴールが決まった瞬間、僕は本当に思考回路が停止したように感じた。僕はユニフォームを脱ごうと思った。 でも脱いだらカードをもらってしまうと思いとどまった。 冷静になろうと努めたよ。そして涙があふれ出た。号泣と呼べるものだった。

 シェレーンにいたときにテレビの画面に映し出された、明るい照明と緑の芝生を見て「これは、どこのリーグなの?」と呟いたあの日から10年が経っていた。

 10年経って、実際にトロフィーを手にしていた。ラ・デシマ……つまり10度目のヨーロピアン・カップ優勝を、レアル・マドリーが果たした。

 決勝戦から数カ月後、爺ちゃんはリオでこの世を去った。

 生きているうちにチャンピオン・リーグのトロフィーを掲げている姿を見せてあげられて、僕は本当に誇らしく思う。ここまで来られたのは彼のお陰だった。

 朝、目覚めるとふとこう思うことがある。「レアル・マドリーで11シーズン、ブラジル代表で11年。自分でもクレイジーだと思うくらいアタックするディフェンダーである僕が、どうしていまでも第一線にいられるのか?」

 そんなの普通のことだ、と言ったら、それは嘘になるだろう。

 毎日練習に行って車を停め、レアル・マドリーのロッカールームに入っていくと、感情が昂る。たとえそれが表に出なくても、心の奥底では深く感じている。いまでもゾクっとする感覚が湧き上がってくるんだ。

 自分がこのクラブの伝統の一部であることは、計り知れないほど価値のあることだ。

 しかし僕には残された最後のミッションがある。

Sam Robles/The Players' Tribune

 2018年のワールドカップで、ブラジル代表は復活しようとしている。その意気込みを書き留め、切手を貼り自分自身に送りつけてみよう。チッチ監督のもと、ブラジルの国旗を一番高いところに掲げることができると、僕は本気で信じている。

 チッチ監督は素晴らしい人物だと、僕には断言できる。

 実際、彼が就任したとき、僕に電話してこう聞いた。「君を招へいするとは約束できない。だが、もし君に声を掛けたら喜んで代表でプレーしてくれるかな?」

 僕は言った。「監督、あなたが電話をくれたという事実だけで、僕の感情は昂っています。17歳のときから代表でプレーしてきました。かつては3人掛けの真ん中の席で20時間も飛行機に乗り、いまではいい席に座っているほど長期間、代表を務めて来ました。そんな僕が行かないと思いますか? 必要としてくださるのであれば、いつでも心の準備はできています」と。

 あの電話がすべてだった。11年間代表でプレーしているけど、代表監督が直々に電話をくれたのは初めてのことだった。僕はチッチのためなら何でもする。そして、爺ちゃんのキャビネットに小さな黄金のトロフィーを置くためには、どんなことだってするつもりだ。

 もし、優勝できなかったらって? どうしようかな。それでも僕がマルセロであることに変わりない。この上なく超幸せさ。

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