ハリケーンの中で生きる

Simon Bellis/Cal Sport Media via AP Images

To read in English (Published Apr 24, 2021), please click here.

 記者に一度聞かれたことがある。「勝つことに飽きたりしませんか?」

 答えはノーだ。その全く逆。

 負けるよりかはずっとマシでしょ?

 すべてのタイトルにはそれぞれ特別な味わいがあって、勝てば勝つほどさらに前に進むためのエネルギーを蓄えることができる。

 次の勝利を目指して集中しようとすると、少し変な例えに思うかもしれないけど、まるでハリケーンの中にいるような感覚になるんだ。

 その中でもみくちゃにされながらも、違う感覚になっていく。音、風、雨を感じなくなるルーティンに入っていくんだ。

 そうなれば、勝って次に進めばいいだけのことになる。よし行こう!って。だけど、今日勝っても、次の試合の準備がある。次の試練が待っている。振り返っている時間、喜んでいる時間なんてない。

 アスリートはみんな、こんな話をするよね? 決まり文句のように聞こえるかもしれないけど、これが真実なんだ。トップであり続けるためには、こういう姿勢が必要になってくる。

 僕はもうずいぶん長く、ハリケーンの中心にいるんだ。ヨーロッパに初めてやってきてから、もう15年が経った。15年だよ!

 これだけやってきたのだから、少しくらい振り返る時間をもらっても良いよね。

 そうだ、ひとつ具体例を話そう。今シーズン序盤に起きたある出来事によって、僕はこの思考の大切さを痛感したし、チームに対して声を上げるきっかけにもなったんだ。

 何が起きたのか説明しよう。

 普段、僕はあまりスピーチをするようなタイプではないけど、数カ月前のあのときは、そうせざるを得なかったんだ。

 12月31日、大晦日のことだ。

 僕たちはプレミアリーグで8位にいた。

 ちょうどトレーニングを終えたころ、ペップは明らかに不満を抱いていた。

 物語の全容を把握するためには、2020-21シーズンの始まりまでさかのぼる必要がある。

 本当に酷いシーズンの開幕だった。プレシーズンも実質なかったようなもので、3カ月近く何もしていない状況で全員が集まった。こんなこと、どの選手にとっても初めての経験だった。

 僕がこれまでに何回、新型コロナウイルスの検査を受けてきたか想像もつかないだろう。ただでさえ僕の鼻はでかいのに。いまじゃどうなってるか想像してみてよ(笑)!

 フィジカル面での体力に問題はなかったけど、メンタルはとてもきつかったね。

 パンデミックを経てのシーズン再開後、僕ら選手のルーティンはすべてが変わってしまった。そう、すべてだ。毎日仕事に行くまでに行なってきたルーティングなんかが、もうすべてできなくなってしまったんだ。食事や、リカバリー、コミュニケ―ションなど、当たり前のように行っていたシンプルなことが。

 完全に変わってしまった日常。我々はそれに順応する必要があったが、そう簡単なものではなかった。コロナウイルスは自分たちのあり方に大きな影響を及ぼした。

 それでも、マンチェスター・シティがこれまで何度も逆境を乗り越えて結果を出し続けられたのは、チームに精神的な強さがあったからだと僕は信じている。

 それが僕らをトップに押し上げた。これまで優勝へと導いてくれたものだ。

Michael Regan/Getty Images

 しかし、年の瀬を迎えながらも我々は8位という不甲斐ない順位だった。そして大晦日のトレーニングのことだった。

 それは決して、良い練習とは言えなかった。

 選手たちの取り組む姿勢、立ち居振る舞い、努力といい、見るからに普段の練習と違うのは明らかだった。こう言えば大体どんな練習だったかわかるよね? パスミス、戻らない、走らない、つまらなそうにさえ見えた。

 これは本来の僕たちではない。2連覇を成し遂げ、勝ち点のリーグ記録を打ち立てたチームの姿ではなかった。

 練習後、チームのキャプテンであり、リーダーである僕にペップが話をしに来た。単刀直入に、全員が100%を出していないと彼は言った。このチームは、トレーニングで100%を出さない奴は来るなというスタンスだ。一度ピッチに足を踏み入れたら、それ以降、議論の余地も交渉の余地もない。

 彼は正しかった。そして、チームを高いレベルで維持することの責任は、僕にあるのだとはっきり伝えてきた。

 シーズン初め、ダビド・シルバの移籍を受けて、僕は投票でクラブのキャプテンに任命された。とても光栄なことだ。ペップだけじゃない、選手やスタッフ全員が投票して決めたんだ。

 イングランドでのキャプテンの役割は、ブラジルや他国と比較すると大きく異なる。いまの僕には、チームのスケジュールや規律に関わる多くの責任が課されている。想像できないほどにね! 治療を受けている選手がスマートフォンを使っていたときの罰金なんかも僕が担当している。

 でもこれはとても重要な仕事だと思っているし、シティのようにレベルの高いクラブで、この仕事を任せてもらえるなんてとても光栄なことだ。軽んじて受け止めてはいない。

 練習後、僕は家族と新年を迎えるために家に帰った。しかしペップとの会話が頭の中から消えなかったんだ。

 大晦日に家族と花火を見ているときでさえも、僕はずっとマンチェスター・シティのキャプテンとしての自分のやるべきことについて考えていた。

 翌日、2021年1月1日の朝7時、僕はチームのマネジャーに「練習前に選手たちのミーティングをセットアップしてくれ。話し合いが必要だ」と連絡した。

 練習前にグラウンドに到着した僕は、「今日の練習はいつもより少し遅く始めるってペップに伝えておいてくれ」とマネジャーに伝言を預けた。

 緊急事態だったんだ。

このチームは、トレーニングで100%を出さない奴は来るなというスタンスだ

フェルナンジーニョ

 全員が集まると、僕は彼らにキャプテンとして率直に話した。

 ペップと話し合ったこと、チームとして超えてはいけないラインを超えてしまったことを話した。練習で手を抜けば、試合で痛い目を見ることになると。

 等身大でとても赤裸々なミーティングだった。僕が話したあとに、みんなもそれぞれが思っていたことを口にした。変化が必要なことはみんなも気づいていて、それを言葉にする必要があったんだ。ハリケーンにもみくちゃにされる必要があった。話し合うことはとても大切だった。

 見過ごしていれば手遅れになっていたが、シーズンはまだ好転する可能性が残された段階にいた。

 次の試合は、当時リーグで絶好調だったチェルシーとのアウェー戦だった。試合前、僕は「もしこれでも選手たちが走ってくれなければ、おしまいだ」と考えていた。すべてを諦める覚悟は出来ていた。

 しかし、我々は勝利した。良い勝利だった。ハーフタイムの時点で3-0。走りすぎたくらいだ!

 幸い、それ以来チームは最高な状態で、記録的なペースで勝ち続けている。

 再びハリケーンの中に飛ぶ込むことができたんだ。

 シティのおかげで、僕は勝利に対する考え方を更なるレベルに引き上げることができた。でもこの考えはイングランドに来る前から持ち合わせていたものでもある。

 僕は決して洗練された、完璧なテクニックを持った選手ではない。しかし、戦いから逃げたことは一度たりともない。チームメイトも、コーチ陣も、ファンも、みんな僕になら任せられると思ってくれている。いつだって身を捧げる覚悟が出来ている。そう、いつだって。

 何年も前に、ヨーロッパに初めて来たときからそうだった。

 シャフタール・ドネツクからオファーをもらい、ブラジルを離れたとき、僕はまだ20歳だった。当時の僕は、ヨーロッパのサッカーはもちろん、ウクライナのことも全く知らなかった。

 お金の単位もわからなかった。地図を見せられてもどこにあるのか指差すことができない。僕にとってヨーロッパは、でっかくて、どこか遠くにある、たくさんの国が集まった場所というイメージしかなかったんだ。

 当時、僕はアトレチコ・パラナエンセで活躍していたけど、外の世界を知らないロンドリーナ出身のただの子どもだった。

 コパ・リベルタドーレスに出場するためにコロンビアに行ったとき、クラブから支払われていた日給が30ドルだったのを覚えている。アメリカドルでだよ! それでも当時の僕らにとっては大金だったんだ。

 僕は友人のアラン・バイーアと一緒に大興奮して、お札を並べてホテルのベッドの上に自分たちの名前を書いた。あんなにたくさんのお金を見たのは初めてだったんだ! アランは名前が短いから簡単だった。でも僕の名前を完成させるには余ったブラジルのレアルを使う必要があったよ(笑)。

 シャフタールからオファーが来たときは、サッカープレーヤーとしての実力を証明する良い機会だと感じたんだ。それはもちろん、金銭的な側面もあったよ。アトレチコ・パラナエンセは僕の移籍金を使ってトレーニングセンターを改修した。一方で僕は、ベッドに家族全員の名前を書けるほどになっていたね!

Alexander Khudoteply/EuroFootball/Getty Images

 ウクライナでの生活の1カ月目が終わり、僕はまだ銀行口座も持っていなかったのでクラブからは現金で試合給が支払われた。山のような札束だった。30ドルが大金だった子どもにとって、それはそれはクレイジーだったね!

 当時はホテルに宿泊していて、そのお金をどうすればいいのかわからなかった。妻に見せたら、最終的に彼女はタオルで包んで圧力鍋の中に入れたんだ!「ここなら誰も見ないわ。ウクライナ人は圧力鍋が何かもわからないでしょ!」って言ってたよ(笑)。

 最初の給料と契約金を使って、僕はクリティバに住む母さんのためにアパートを購入した。昔のチームメイトたちに比べると、僕はかなりの倹約家だったね!

 お金の話はこれくらいにして、僕はウクライナでとても素晴らしい8年間を過ごすことができた。

 新しい文化、そして生き方への理解が深まった。時間はかかったけど、ロシア語も喋れるようになった。当時知り合った友達とはいまでも連絡を取り合っている。そして何よりも大切なのは、息子がウクライナの地で生まれたことだ。だから僕の身体の一部はこの先もウクライナ人であり続けるだろう。

 僕がこの国や人々に対して特別な感情を抱いているというのは本当のことさ。でもね、とにかくめちゃくちゃ寒かったってことだけは言わせてほしい!

 僕が生まれ育ったブラジルの地域は、一番寒いときでも15℃を下回ることは稀だったんだ。だからドネツクで迎えた初めての冬がどれだけ衝撃的だったかは想像がつくよね。なんせこれまで雪だって見たことがなかったんだから!

 クリスマス休暇を終えて戻ってきたあの1月のことは、絶対に忘れない。ヨーロッパ全土でも、最も冷え込んだ日だった。

 マイナス26、27℃とかの話だよ。本当に。

 ダッシュで車に乗り込んで、トレーニングセンターに行って、トレーニングして、車に乗って家に帰るの繰り返しだった。外を歩くなんて絶対無理だった!

 とても厳しかったけど、そういうことにも慣れていくものだ。新しいチャレンジを僕は受け入れた。

 サッカー自体もそうだった。より速く、よりダイナミックで、ブラジルでやっていたときよりもとにかく走るということに順応する必要があった。そしてチームメイトやコーチたちの助けもあって、僕は順応することができたんだ。

 選手としてもひとりの人間としても、昔から僕は結果を出すために苦労することを楽しめるタイプ。習慣を変えて、全く新しい何かに身を投じることを好んだ。本当に何かを学んで楽しむためには、多少の苦労は必要だ。その結果、プロフェッショナルとしてだけではなく、人間としても成長することができるからね。

 そして結果が出たとき、トロフィーを掲げる瞬間、それまでの記憶が頭の中を駆け巡る。これまでの葛藤、プロセス、怪我の苦しみ、雪の中での厳しいトレーニングをね。

 何度でも繰り返せる。

息子がウクライナの地で生まれたことだ。だから僕の身体の一部はこの先もウクライナ人であり続けるだろう

フェルナンジーニョ

 ウクライナでの8年間で、僕らは何度もタイトルを手にしたけど、一番の思い出は間違いなく2009年にUEFAカップで優勝したことだ。

 オーナーを筆頭に、クラブは数年間にわたってブラジル人選手にかなりの額を投資していた。そしてシャフタールをヨーロッパ屈指のビッグネームにするという壮大なプランを持っていたんだ。そのためには、ヨーロッパでタイトルを獲る必要があった。

 UEFAカップで優勝するまでの4年間、クラブはヨーロッパの大会で多くの苦しみを味わっていた。手痛い敗戦が何度もあった。いまでも憶えているのは2007年、セビージャとの試合で、最後の1分で相手のキーパーに得点されたこと。キーパーだよ!

 こういう敗戦を味わうと諦めたくなるときもある。だけど、僕らはとにかく前に進み続けた。僕らには優勝するに値する技術と強い意志が備わっているとわかっていたんだ。そして2009年5月20日、イスタンブールでヴェルダー・ブレーメン相手にそのときがようやくきたんだ。

 トロフィーがクラブの歴史に新たな1ページを刻んだ。全員共通の夢が叶った瞬間だった。

 そして決勝戦に先発したブラジル人は僕を含めて5人。ウクライナに来て取り組んできたこと、そしてクラブが僕らを信頼してくれたことが証明された瞬間だった。

 いまでは、ブラジルでシャフタールについて話をすると、みんな何のことかわかってくれる。僕らの活躍もあって、シャフタールはブラジルでも名の知れたクラブになったんだ。とても特別なことだ。

 この諦めない気持ちとレベルを落とさない姿勢こそが、いま僕が立っているところまで導いてくれたんだ。



 イングランドのプレミアリーグは世界で最も注目されているリーグのひとつではあるものの、実は僕はシティに移籍するまで熱心に追っていなかったんだ。

 チャンピオンズリーグは大好きなんだけど、他国の国内リーグを研究するほどの時間はなかった。

 それでも移籍したのは、それがとてもエキサイティングで新しい挑戦だったから。キャリアにおける次のステップを踏み出したかったんだ。

 ウクライナでは僕らはとても素晴らしいチームだったけど、国内では敵無しでファンやメディアからのプレッシャーもあまりなかった。他チームとのレベル差が明らかだったからだ。

 要するに穏やかな海で航海していたんだ。その一方で、プレミアリーグは常に嵐の中での航海だ。

 すべてのチームの経済力が高く、リーグ全体がなんというか必死だ。1週間で3試合という無茶苦茶なスケジュールがあったりしても、すべての試合に勝つために、毎試合全力を尽くすことを求められるんだ!

 イングランドに来てから、僕のメンタリティを形成するのに大きな影響を与えてくれたひとりがペップだ。

 彼とはもう6年、ともに闘っていて、その期間に本当に多くを学んだ。彼がサッカー史上最高のコーチのひとりであることは明白だろう。革命家だ。

Press Association via AP Images

 彼はとても知的で細部にまで気を配ることができる素晴らしい教師だといえるよ。その分野における天才と言えるような教師でも、教えるのが下手だから生徒が全く伸びないなんてことがあるよね? ペップはその逆で、技術的なことであろうと、戦術的なことであろうと、自分のメッセージを伝えることにとても長けているんだ。第2言語でそれをやるのは決して簡単なことではないよ。とにかく全員が彼を理解することができるんだ。

 彼の部屋はいつでも開放されていて、どんなことでも彼は相談に乗ってくれる。

 僕からすれば、常に100%を求めてくるところが彼の魅力だと思っている。フィールドでも、ミーティングでも、どこでだって。

 あの大晦日の練習後、彼はいまのレベルではいけないと僕に言った。そしてチームにとって正しいレベルまで上げられるかどうかはキャプテンの僕次第であることを明確に伝えてきた。

 近年、僕たちは、このクラブで幾多の記録を何度も塗り替えてきた。歴史的な偉業だ。

 記録を打ち立て続けた。

 2シーズンで勝ち点198を記録した。

 センチュリオンズとまで呼ばれたんだよ?

 昨シーズンのリバプールでさえそれを超えることはできなかった!

 フィールド内外での練習で努力を費やした結果だ。

 多くの人に、マンチェスター・シティでのあの素晴らしい2017-18や2018-19シーズンについてよく聞かれる。自分たちがすごいことをしていたという、自覚はあったのかと。

 正直、自分たちがやり遂げたことを本当に理解するには、まだ少し時間がかかると思っている。もしかしたら引退後にキャリアを振り返ってみたとき、ようやく気づくのかもしれない。もしかしたらまだ15年以上も先のことなのかもしれない!

 でもいつか、僕は子どもか孫と一緒に、僕がこの大陸で成し遂げてきたことを振り返る日が来るだろう。

 その日、僕はエビ料理でも出して、ココナッツウォーターを注いで、お気に入りの椅子に深く座って、子どもたちに話すんだ。

 ウクライナでの冬。

 圧力鍋。

 トレーニングセッション。

 数々のタイトル。

 最高の瞬間なんだろうな。

 でもいまはその時じゃない。まだだ。

 まだやり残したことが、たくさんある。

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